人物の比定
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谷口克広は、『寛政重修諸家譜』の中で堀某(次郎・遠江守・秀基)とその子の存村(石見守)の父子として記述されている人物について、『秀基の事績と通称、存村の生年とが、堀次郎秀村とほぼ一致するので、『重修譜』の秀基・存村父子の記事は、秀村のことと考えるべきではないだろうか』としている。ただし、秀基の事績は短く、ただ居城と住地が記されてあるだけなので、『織田信長家臣人名辞典』の秀村の項にあるように、通称は父と同じく遠江守を名乗ったもので、具体的にはやはり、堀遠江守の子、堀秀村(元積)=堀存村ということなのであろう。
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人物の比定
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孫一やその一族のことは分かっていないことが多く諸説ある。 戦国期から江戸時代にかけての文献には紀州雑賀衆の孫一(雑賀孫市)の記述がみられる。石山合戦(1573年)において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍勢を苦しめたとされる。この人物については、石山合戦で討ち死にしたとする説、秀吉の雑賀攻め(1586年)のときに藤堂高虎に謀殺されたとする説、小田原征伐(1590年)でも鉄砲頭として戦い生涯を終えたとする説、関ヶ原の戦い(1600年)で石田方について戦後水戸藩に仕官したとする説などがある。 しかし、『和歌山市史本文編』などでは異なる3人の人物とされている。 鈴木重秀石山合戦で侍大将となった「鈴木孫一」は鈴木重秀と推定されている。『信長公記』や『本願寺文書』に「鈴木孫一」として記載がある。鈴木重秀については、「サイカノ孫一」(『言継卿記』)、「さいかの孫市」(「真鍋真入斎書付」)として史料に出てくることもあるが、これは「尾張の信長」等の類例の他称と考えられ、本人の自著でも書状の宛所でも「雑賀孫市」(雑賀氏)はない。更に言えば、彼の戦友の佐武義昌の覚書や信長・顕如・頼廉の書状など、彼と関係の深かった人間による表記は「鈴木孫一」である。 鈴木重朝豊臣秀吉に仕え小田原征伐や伏見城の戦いで活躍した「鈴木孫一」は鈴木重朝と推定されている。『伊達家文書』に「鈴木孫三郎」として記載がある。 平井孫一郎義兼和歌山市平井の蓮乗寺に墓碑がある人物で、蓮乗寺には本願寺顕如から下付された方便法身像がある。小牧・長久手の戦いで信雄・家康側に立ち秀吉を牽制した雑賀衆の指導者が平井孫一郎義兼と推定されている。 なお、「雑賀孫市」という呼称を公的に用いたのは鈴木重次(重朝の次男)である。最初は父と同じく「鈴木孫三郎」と名乗っていたが後に改名、この名が代々子孫に受け継がれることとなった。
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人物の比定
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淡輪氏は「たんのわ・うじ」または「たんなわ・うじ」と読み、和泉国淡輪荘の豪族で、本姓は橘氏、鎌倉時代の武士で、同荘の下司職・橘兼重を祖とする。 淡輪姓の武将に、他に淡輪大和守がいるが、『佐藤行信氏文書』に淡輪徹斎と淡輪大和守をさして「淡輪両人」という表現があるため、大和守とは別人で、親子というわけでもなく、間柄は不明。同族の分家の者と思われる。ただし、しばしば同一人物として混同され、良重の通称を大和守とするものがある。
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