人体実験と性的虐待
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:51 UTC 版)
「コロニア・ディグニダ」の記事における「人体実験と性的虐待」の解説
こうした異常性に声をあげる者がいなかったわけではないが、脱出者は捕まり、または強制的にドイツに戻されたりした。力強いコネクションをコロニアは築き上げてしまったからである。このためコロニアは法がおよばず、「国家の中の異国」、「チリの法律が及ぶのはコロニアの玄関まで」と呼ばれた。 指導者シェーファーによる子どもに対する性的虐待は、儀式化、組織化、ルーティン化され、6歳頃から始められた。コロニアでは家族という単位自体が存在しないため、子どもたちが父親や母親に助けを呼ぶことは一切できなかった。そしてシェーファーは一日に3人~4人の男の子を性的にもてあそんだ。周囲の者たちは、恐怖のため誰も声をあげることが出来なかった。シェーファーに性的に愛された者には特権が与えられ、彼の要望にこちらから進んで応えない者には電気ショックなどの拷問のほか、周囲の者が食べる中で食事も与えられなかった。 コロニーからの離脱者は、パウル・シェーファーが絶対的権力を握るカルトであったと証言しており、住民は決してコロニーを離れることが許されず、性により厳格に区別され、逃げられなかった。監視体制が行き届き、フェンスと有刺鉄線, そしてセンサーで覆われていたからである。更に外ではコロニアに協力する住民と軍、警察、ドイツ大使館によって守られていた。 たとえ親子であっても共にいることは徹底して禁じられた。このため同じ入植地で過ごしながら、親子で撮った写真すらほとんどないのである。彼らは双方とも薬を打たれ、電気ショックなどの拷問を受け続けた。こうした中シェーファーは好き勝手に暴力を振るい、日々子供たちを性的に虐待し続けた。また労働は7歳から始まり、1週間7日、1日16時間、365日続いた。反抗的な者に対してはほぼ日常的に暴力が振るわれた。 外部からの情報を遮断する意味から、テレビや電話、カレンダーは禁じられ、住民はバイエルンの農民の服を身に纏い、ドイツの民謡を歌いながら働いていた。セックスも禁じられ、性欲を抑える薬の服用を強要された住民もいた。専ら女児(時には男性にも)に対し鎮静作用のある薬が投与された。殴打や拷問といった形での躾は日常的に行われた。 だが一方で、シェーファーは子供に対する性的なもて遊びをルーティーンとしていた。またシェーファーが望むことを喜んでやらない場合は、別の建物に連れて行かれ、電気ショックを含む拷問を受けた。 入植者としてコロニアに入る者たちは当初「いつでも自由が保障される」と言われるのだが、実際には脱出不可能であった。彼らは主に3つに分けられた。シェーファーに完全に性的に従属し、自ら進んで何でもする者たちは、「立派なクリスチャン」とされた(近年は当時の現実を証言する者も出ている)。次にコロニアの労働に耐えられず、脱出を試みる者は、「頭がおかしい者、売春婦」とされた。彼らはチリ中どこまでも追跡され、連れ戻された後は薬を打たれ、処罰されていた。そして最後は「共産主義者」であった。また指導者シェーファーは「神の次に来る存在」として崇められた。 元入植者で脱走者ヴォルフガング・ミューラーは、1966年、入植者で初めて指導者シェーファーによる性虐待を告訴している。3度の脱走の末に行った告訴では、シェーファーとコロニアの医師は12歳の少年であった頃からほぼ日常的に彼を殴り、電気ショックを与え、薬物注射を行っていたことが訴えられた。さらに彼を薬と拷問の実験台とし、朝から晩まで強制的に働かせ続けた。しかしチリの裁判所はそれを認めず、同じように虐待を受けた母親共々、惨めな形で西ドイツに戻すことでうやむやにしている。
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