二本木遊郭とは? わかりやすく解説

二本木遊郭(明治期〜昭和初期)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 18:49 UTC 版)

二本木 (熊本市)」の記事における「二本木遊郭(明治期昭和初期)」の解説

1877年明治10年)、それまで熊本城北側京町中心に散在していた遊廓西南戦争全焼したため二本木移転明治から昭和初期にかけて西日本有数遊廓街として栄えた。『全国遊郭案内』(昭和5年によれば、総軒数73軒、娼妓660人。 熊本県当時許可され遊郭設置ヵ所は,飽田郡二本木宇土郡三角村八代郡八代町天草郡牛深村の4ヵ所である 主な施設として東雲第二東雲第二一日亭、日本亭、吾妻清川亭、芳野亭、東京亭・同支店一楽亭、翁亭、双玉楼、幸、角油屋板倉松島、幸、三妖などがあったが いずれも取り壊され現存していない。 東雲数千坪の敷地2階建ての大本屋と25別棟があり、庭園水前寺成趣園ならって東海道五十三次かたどっており完成まで10年歳月要したと言われている。 毎週火曜と金曜に梅毒検査行い私娼よりは安全であったという証言もある。(すべての施設が同じ待遇だったかは不明1900年明治33年)、東雲娼妓たちによるストライキ事件がおこる。花岡山遊女たちが立てこもりその様子は世間騒がせ映画や書籍題材となった1901年 二本木女紅場設立 1926年 420円で一家窮乏を救うために小学校女教師(25)が身売りしていたことがマスコミ報じられ大きな反響を呼ぶ。楼主たちは救助420円を拠出して300円を母親寄付女教師帳場及び裁縫担当することで決着1935年熊本市行われた新興熊本大博覧会イベントとして二本木遊郭で花魁道中が行われた。 1949年 藤崎八旛宮秋季例大祭で初となる女性のみの団体として 二本木町特殊飲食店飾馬奉納を行う。 1950年代 日雇い労働者日当250程度のとき、日本亭で遊女一晩過ごす「花代」は約1200程度であった二本木神社狛犬台座寄進者名には「二本木娼妓有志者中」と刻まれている。 隣の地区である蓮台寺にある、女性歌人檜垣の塔には各遊郭の名前が刻まれている。娼妓たちは蓮台寺詣を楽しみにしていたと言う1957年 売春防止法成立し遊郭跡地旅館下宿料亭などに転業徐々に面影減っていった。 1958年3月 二本木貸席組合解散式の宣言行い80年歴史に幕下ろす 1976年昭和51年1月20日 二本木旧東出火 2009年 アパートとして使用されていた遊郭日本亭」が取り壊された。

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