上野不忍池での開催とクラブの廃止
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「共同競馬会社」の記事における「上野不忍池での開催とクラブの廃止」の解説
詳細は「上野不忍池競馬」を参照 不忍池競馬開催時の共同競馬会社(Union Race Club)は、社長を小松宮、副社長を毛利元徳、鍋島直大と皇族・旧大名が務め、幹事に伊藤博文、西郷従道、川村純義、松方正義、井田譲、楠本正隆、大河内正質、岩崎弥之助、藤波言忠などが名を連ね、会計長に三井八郎右衛門など、馬主にも旧大名たちや明治の元勲、三井・三菱の当主をはじめ名士が名を連ねていた。 発足当初の戸山時代は陸軍色が濃かったのに比べ、鹿鳴館時代となった上野時代の共同競馬会社は競馬の母国イギリスでは競馬は貴族の社交の場であったことをそのまま取り入れたような上流階級が集う会社(クラブ)の色が濃くなっていった。発足時120人だった会員も上野時代には600人に増え、予算も賞金額も戸山時代とは比べ物にならない規模に増えていた。 上野不忍池が競馬場地として選ばれたのは交通の便もあるが、パリ・ブローニュの森にあるロンシャン競馬場などを意識し貴族の社交場として競馬場は公園内にあるのがふさわしいと考えたからだと言われている。不忍池周囲を競馬場として整備する総工費は11万7千円、国家事業である鹿鳴館の総工費18万円と比べてもその事業規模の大きさがわかる。共同競馬会社は管轄である農商務省から不忍池の7年間の借地を認められ、この時代としては大規模な馬見所(メインスタンド)や厩舎を作った。 1884年(明治17年)当時の共同競馬会社の競走馬は大半は在来の日本馬で西洋馬との雑種馬も少数いたが、共同競馬会社のレースには横浜では活躍していた中国馬は出られなかった。共同競馬会社は社交として競馬を運営するだけでなく、馬匹の改良も目的としていた。しかし日本に輸入されている中国馬はどれも騸馬(去勢された馬)だったのである。馬主には日本人ばかりでなく外国人も多く含まれた。 上野時代の共同競馬会社では抽籤馬制度も取り入れている。抽籤馬とは、競馬運営団体が購入した競走馬を抽選でもって会員に分配(販売)した馬のこと。会員の任意購入だけでは十分な新馬数が見込めないなどの理由で行われている。会員が独自に馬を生産したり競走馬生産牧場と連絡を取ること育成や調教はよほどの金持でないと独自に行うのは負担が大きすぎるため、競馬運営団体がその大部分を負担して馬主を増やし、ひいては競走馬の数を増やす方策で抽籤馬制度のため、上野時代の共同競馬会社の登録馬は戸山時代に比べ大幅に増加している。 不忍池競馬の第一回開催は1884年(明治17年)11月1日。明治天皇をお迎えし、明治天皇は築場記念として金5,000円を賜う。 天皇とともに競馬を観覧されたのは各宮様、多くの旧大名たち、大臣たちも2人を除いてみな参加し、東京在住の華族や各省の高官、軍高級将校、各国公使もほとんどが参加したという。一般人も観覧することが出来たので上野は人であふれたという。 不忍池競馬は春場所・秋場所の定期開催(一場所三日間開催)され、鹿鳴館と並び当時の外相井上馨が主導する欧化政策を象徴する一大イベントでもあった。しかし共同競馬会社は馬券を売ることはできず、収入は会費、入場料、天皇からの下賜金、宮内省、農商務省、陸軍省からの支援に頼っていたが赤字であり1886年(明治19年)からは一場所二日の開催になり賞金額も減っていった。経営難のため1892年(明治25年)の秋場所を最後に共同競馬会社による競馬開催は終了する。 なお、経営難と言っても共同競馬会社の主催する競馬は不人気だったわけではない。最後の明治25年の秋場所でも多くの観衆を集め、馬も当時の俊英が集まって開催されていた。しかし民間の1クラブであり馬券という収入減がない共同競馬会社が大規模な競馬を開催できたのは、鹿鳴館に象徴される欧風化政策を進める外務省・宮内省、馬匹改良を求める陸軍・農商務省などの官の支援があったからである。しかし鹿鳴館に象徴される欧風化政策は明治20年ごろから衰退し、また、共同競馬会社自身は馬券を発売しなかったとはいえどうしても賭けが発生する競馬では日本馬のレースに偽って雑種馬を出場させるなど血統の正当性も不明瞭化し陸軍の馬匹改良の目的に対しても疑問がわきだしていた。このため共同競馬会社への官の支援は脆弱になり、共同競馬会社の赤字は表面化したのである。上野不忍池競馬は鹿鳴館時代の一つの象徴であり、鹿鳴館時代の終わりは共同競馬会社の終わりを告げるものでもあった。
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