上記以外の諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:52 UTC 版)
「日本への自動車の渡来」の記事における「上記以外の諸説」の解説
どの時期にもどの研究者からも最有力説として扱われたことがない諸説は、下記の通りである。一部の説は可能性を否定しきれないものの、いずれも実在や輸入時期の根拠となる資料を片方もしくは両方とも欠いており、不確かな説である。 1897年(明治30年) - オリエント蒸気自動車 この説は戦後に広まったもので、根拠となる資料は全く発見されておらず、説の起源も不明である。 オリエント蒸気自動車は米国のウォルサム・マニュファクチャリング社(英語版)によって製造されていたものだが、同社が蒸気自動車の製造を始めたのは1901年とされており、1897年以前に日本に持ち込むことはおそらく不可能である。オリエント蒸気自動車は1901年以降にまとまった台数が日本に輸入されるようになっており、その内の1台の記録が年代を間違えて伝えられていると推測されている。 1897年(明治30年) - 石油発動自動車 この車両は1897年3月24日付けの『報知新聞』で「輸入予定」だと報じられているのみで、他の媒体でも続報が発見されておらず、予定だけに終わったと考えられている。 1897年(明治30年) - 横浜、神戸の外国人商会が輸入した自動車 外国人が外国人居留地以外に住めるようになったのは1899年7月17日の改正条約発効(内地雑居の実施)以降で、それまでは旅行も許されていなかったことから、それ以前に自動車を持ち込むとは考えにくいという見方と、居留地内で自動車が存在していたとしてもそのことを日本の新聞などは記事にしなかったのではないか(記録されていないところで輸入されていたのではないか)という見方がある。いずれにせよ、存在したことを裏付ける資料は発見されていない。 1899年(明治32年) - 陸軍中央幼年学校の西村教官が持ち帰ったガソリン自動車 この説は言い伝えがあるのみで根拠となる資料は全く発見されておらず、「当時同校在学中の竹田宮恒久王殿下、同校第一中隊一区隊長福島中尉及び運転手が西村教官と座上せる写真もある」という様子と共に伝わるのみである。 関連のありそうな資料として、1902年(明治35年)頃に陸軍中央幼年学校の校庭で北白川宮恒久王(後の竹田宮恒久王)、福島隊長、伊藤助太郎少佐がオールズモビル・カーブドダッシュの4人乗り乗用車(ラナバウト)に乗っているところを撮影した写真は存在する。この車両は同校のフランス語教官である黒田太久馬がフランスから持ち帰ったものとされ、この説の「西村教官」とはすなわち黒田教官のことではないかと言われている。黒田が車両を持ち帰ったという話が事実ではなくても、黒田の妻である黒田琴はモーター商会(オールズモビルを扱っている)の出資者の一人であることから、幼年学校がオールズモビルを借用することは難しくなかったと推測されている。いずれにせよ、1899年の出来事とはならない。 1899年(明治32年) - 大倉喜七がパリ万博から持ち帰ったダチオン号 警察関係の年表に記載があり、信憑性が高いようにも思われる説だが、大倉喜七(後の喜七郎)は1900年からイギリスに留学しており、パリ万国博覧会(1900年)から日本に帰国しているとした場合は矛盾があり、警察の記録に誤りが疑われる。また、パリ万博は1900年の前は1889年開催なので、持ち帰ったという話が仮に事実であったとしても、「1899年」という開催年は不正確ということになる。 喜七の父親である大倉喜八郎は1900年の5月から9月にかけてパリ万博を含めて欧米を商業視察のため旅行しており、(喜七ではなく)喜八郎が自動車を購入して日本に持ち帰ったとも考えられるが、裏付けとなる資料がない。ただし、大倉に限らず当時の金持ちは郊外に広大な別荘を持っていることが多く、記録には残っていないだけでそうした場所で使うために人知れず自動車を所有していた可能性は排除できないとも考えられている。
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