パリ万国博覧会(1900年)とは? わかりやすく解説

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パリ万国博覧会 (1900年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/05 14:04 UTC 版)

パリ万国博覧会 > パリ万国博覧会 (1900年)
1900年パリ万博、エッフェル塔がそびえる
1900年パリ万博のパノラマビュー
会場の様子を伝える動画。約36分
観覧車「グランド・ルー・ド・パリ」(1920年解体)

1900年のパリ万国博覧会(せんきゅうひゃくねんのパリばんこくはくらんかい, フランス語: Exposition universelle de Paris 1900, Expo 1900)は、1900年4月14日から11月12日まで、フランスパリで開催された国際博覧会である。

概要

会期中に演じられた、ロイ・フラーサーペンタインダンス。この劇場に川上貞奴が「マダム・貞奴」として上がった

19世紀最後の年(世紀末)を飾る国際博覧会であるが新世紀の幕開けを祝う意味も込められており、開催期間中には過去最大となるおよそ4800万人が訪れている。また、パリオリンピック(第2回近代オリンピック)に合わせての開催でもあった。1855年以後、パリで開催された国際博覧会では5回目となる。前回のパリ万博に引き続き、くじ付き前売入場券を販売して開催予算1億フランの6割をまかなった(4割はフランス政府とパリ市が折半)。

会場としてグラン・パレプティ・パレが建てられ、ロシア皇帝ニコライ2世の寄付によりセーヌ川両岸を結ぶアレクサンドル3世橋が架けられた。また、当時世界最大となる高さ100メートルの観覧車グランド・ルー・ド・パリ」が今回の博覧会に合わせて一般公開となり注目を集めている。さらに、動く歩道1889年第4回パリ万博に合わせて建設されたエッフェル塔エスカレーターが設置されて話題となった[1]。ちなみに、アメリカの発明家チャールズ・シーバーガーがオーチス・エレベータ・カンパニーと組み、「escalator」の商標で出展して1等賞を獲得、それを機にエスカレーターの普及が始まったといわれている[2][3]

一方、装飾美術ではサミュエル・ビングが出展したパビリオン)が一躍注目を集めたことで、店名であった「アール・ヌーヴォー」は今回の万博を象徴する表現となり、さらにはこの時代を象徴するフランスの装飾美術様式そのものを指す名称ともなっている[1][4]。また、1895年にパリのグラン・カフェ地下で世界初の映画館をオープンしたリュミエール兄弟は、今回の万博でもシネマトグラフによる映画の上映を行い、訪れた人々を魅了している[1]

会場の一つであるグラン・パレでは、今回の万博の企画展として『フランス美術100年展』が開催され、新古典主義から印象派までの19世紀のフランス美術を代表する約3000点の作品(絵画彫刻など)が展示された。 今回の万博のテーマは「過去を振り返り20世紀を展望する」ことであり、それに合わせた展示物も数多く出品されている[1][5][6]

会期中にサラ・ベルナールが自身の名を冠したサラ・ベルナール劇場にて『レグロン』を演じ、大好評となった。また、ロイ・フラーが自身の劇場で披露したサーペンタインダンスも好評を受けた。

この万博会場を訪問した日本人のひとりが夏目漱石で、ロンドンへ留学の途上に立ち寄った[7]。またおりから海外ツアー中でロンドン公演を終えたばかりの川上音二郎一座はロイ・フラーによってパリに招かれ、貞奴はフラーの劇場に「マダム貞奴」として出演し大人気となった。万博を訪れたアメリカの旅行作家バートン・ホームズは、フランスの演劇批評家らがこぞって川上一座を称賛していること、ある高名な演劇評論家は「サラ・ベルナールがフランスの女優で、エレオノーラ・ドゥーゼがイタリアの女優なら、貞奴は世界の女優だ」とまで評したと伝え、その他の催し物がつまらなく見えてしまうほど日本の役者たちは1900年の万博で成功した、と書き綴っている[8]。また商業パビリオンに芸者を出展したところ、一目惚れした青年がプロポーズを申し出たエピソードや、着物を譲って欲しいと願い出た女性の存在の記録もあるという[要出典]

フランスの人類学者レオン・アズレイ(Léon Azoulay)は万博で集まった世界各国の芸人たちから約400の音源を録音し、フランス初のレコーディング・コレクションを作成したが[9]、そのうち14本が日本関連のもので、これは日本の音楽としては世界初の録音となった[10]。英グラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグも会期中に川上音二郎一座の公演を録音した[10]

日本の出展

日本のメインパビリオン、日本館

1900年のパリ万博には日本も出展し、各パビリオンにおける様々なジャンルの出品に加えて、メインパビリオンでは大規模な古美術の展示が行われた。美術商の林忠正が指揮をとった。日本が海外において古美術をこれだけの規模で一堂に展示するのは初めての事であり、明治天皇は移送中の事故を懸念したとされる[11]。「日本の威信を世界に示す機会であり、断じて未開国と同一視されるようなことになってはならない」との考えで日本文化の歴史の長さを強調[11]、これによって海外の人々に「本邦の美術を敬慕するの念を起こしめたる」[12]ことを目的としていたが、アール・ヌーヴォーの嵐が吹き荒れるパリ万博において、さしたる評価は得られなかった[13]。また、日本美術の紹介のために、『日本美術史』(HISTOIRE de L'ART DU JAPON)という豪華本の編纂が進められて完成、各時代の選りすぐりの美術品が写真入りで紹介され、千部印刷して各国首脳や博物館に贈られた[14]。現在の日本の学校教育における美術史はこの本の内容がもとになっている。

日本館[15]に加え、政府の出展したティーハウスでは紅茶、ウーロン茶、抹茶などの販売を行った。この茶店を評して、1892年に日本を旅行したことのあるバートン・ホームズは手記に「日本人は世界で最も趣味のよい国民なのに、この万博の茶店は建物も売っているものも百貨店で売られているようなガラクタの類だ」と記した[16]

また大関を中心とする兵庫県の酒造メーカー連合が酒舗を設け、日本の酒類の販売を行った。当時は海外にあまり日本酒を好む人はおらず、巨額の金がかかる上に「まだ時機が来てない」として、日本の事務局は一旦断ったが、新販路の開拓に期待をかける全国酒造組合の熱意に押されて許可することにした。珍奇なものを好む人がいるので、5月1日の開店当初は盛況だったが、しだいに客が減り、8月15日時点で31704フランの赤字を出し、経営不振のため万博の閉会を待たずに8月31日をもって閉店。跡地は菊花展の会場に充てられた[17]

パビリオン

日本は仏国事務局より割り当てられたトロカデロ地区にメインパビリオンを設けた。日本館の設計は伊藤平左衛門が手がけて法隆寺金堂を模し[15]御物を含む古美術品を出展した[18]。メインパビリオンにおいては日本固有の建築法を示そうと試み、前には小池を設けて日本庭園風にし、また茶店や酒屋なども設けた。一方で、セーヌ川に日本風の橋を建設する計画を仏国政府より打診されていたが、費用の問題から日本政府はこれを謝絶せざるを得なかった[19]

トロカデロ地区に割り当てられた独立国は日本、清国トランスヴァール、の3か国のみで、他はロシアやオランダなど欧米諸国の植民地のパビリオン出展(殖民館。文明と言うより主に異国趣味的な展示を目的としたもの)に割り当てられていた。日本は当時、アジアにおける数少ない独立国であったにもかかわらず、パビリオンはこの「フランス領以外の植民地エリア」に組み込まれている[20][18]

日本的興行物の取り締まり

パリ万博で好評を受けた「マダム・貞奴」の公演は、日本政府の出展とは無関係に行われたものである。

以前より国外の万博会場にて、日本の展示の近くで日本政府とは無関係に興行を行う者がいたため、日本政府から問題視されており、本博覧会ではこれらを検閲する手筈を事前に整えていた。本博覧会でもフランスの興行会社が芸者を雇って世界一周館の近くで勝手に歌舞を踊らせるという行為や、諏訪秀三郎(1855-1933)が角力興行を行おうとするなどの行為があったため、日本政府が強硬的にやめさせようとしたが、これらの興行を許可するという立場のフランス当局とトラブルになった。最終的にフランス当局の担当者より「最後通告」が下り、日本当局は取り締まりを断念した[21]

そのため、川上一座がロイ・フラーに雇われて興行を上演した件に関しても、政府の報告書において川上の名を挙げて特筆されるほど問題視されているものの、取り締まることができなかった。

日本の出展作品

出展品は内閣書記官長平山成信を筆頭とする政府・民間合わせて42名の調査員によって採択された[22]

日本政府は出展作品を公募し鑑査会で委員が採点する方式で選ぼうとするが、当初の規定で15点以上とした平均獲得点数は審査の過程で見直され、平均10点以上に緩めている[23]。前年の秋に白馬会展覧会で合格作品を披露した[24][25][26]。その作品を以下にあげる[27]

建築

建築関連

ティーハウス(1点)[23]
関保之助「藤原式室内装飾図」[27] (東京美術学校生徒作品)
島田佳矣「徳川式室内装飾図」[27] (同上)
河辺正夫「西洋建築図案」[27] (同上)

絵画作品

絵画

日本画(55点)[23]

西洋画(30点)[23]

版画(2点)[23]

  • 合田清一日清戦争図2点

水彩画 (5点)[27]

  • 三宅克巳一初秋の景色、水に映ずる森、米国田舎の秋、信州小諸附近の景、千曲川初春

彫刻

木彫(11点)[23]

  • 荒川嶺雲一老人
  • 後藤貞行一馬の■歩
  • 高村光雲一山■■■
  • 竹内久一一肩車
  • 山崎朝雲一人物、小女猫を抱く
  • 米原雲海一小児 戯犬、子供■を弄ぶ 
  • 山田鬼斎一■夫、釈迦、盲人 

金属彫(7点)[23]

  • 大塚秀之丞一拾ひ子 

工芸品

牙彫(5点)[23]

  • 石川光明一藤原通成 
  • 望月光堂一婦人納涼 
  • 平坂芳久一雨中小児 
  • 石川光明一鷹 狩 
  • 宇田川捨次郎一老人子供

その他

  • 美術学校生徒作出品[27]
  • 秋衣孤影 山崎勇馬 
  • 兵車行図 結城貞松
  • 菅公左遷図 溝口禎二郎 
  • 秋渓山水 大森新之助
  • 春野雉子 森田豊次郎
  • 高倉帝厳島行幸 木村信太郎
  • 春遊 渡辺啓三

受賞

メダーユドール深川製磁「フカガワポースレイン」(陶磁器金賞:北村新次。北村醤油酒造場[注釈 1]醤油

銅賞:服部孫兵衛。染色工芸品の有松絞り

優等金牌大橋翠石日本画『猛虎の図』。

金牌:伊藤平左衛門。設計図、貴族邸宅。
銀牌:黒田清輝。油絵『湖辺』

商業パビリオン

エキゾチックな建物が集められた〈世界旅行〉パビリオン

正式な各国館とは別に、エッフェル塔近くに企業などが出展する商業地区が設けられる。その中に「Tour du Monde(世界旅行)」という名の商業パビリオンがあり、外周に並べ立てたエキゾチックな建物には、タイやインド、アレクサンドル・マルセル設計の日本風の五重塔や門が建った[34]。これは19世紀末に欧州で大人気となったジュール・ヴェルヌの小説『八十日間世界一周』を小さく象ったアトラクションで、館内をぐるりと見て歩くと、わずか1時間で世界一周ができるという趣向だった。内装のパノラマ画を画家ルイ・デュムーランが手がけ、各国の風景をジオラマで再現、現地人も連れてきて展示に加えてあった[35]

展示は多分に西洋人の植民地に対するロマンチックな幻想で歪められたものだったが[35]、旅行作家のホームズは「この塔や門には日本で彫られた本物の彫刻がほどこされており、(万博内の)日本の建築物で唯一見る価値があるものだ」と評し[36]、再現された「茶店は繊細な造りで着物姿の芸者もおり、室内や庭や人々もまさに日本という雰囲気で、日本好きも満足する出来だ」と評価し[37]、事実、このパビリオンは万博で一番の人気を博する[35]。閉幕後、五重塔の設計図はレオポルド2世 (ベルギー王)の手に渡り、ブリュッセルの極東博物館に使われている。

参考文献

出版年順

植野健造氏作成「白馬会関係新聞記事一覧」より。
  • 毎日新聞の発表。巴里博覧会出品の美術作品」『毎日新聞』東京文化財研究所 (転載)、1899年9月6日、1 (雑報)。2019年7月9日閲覧。 東文研アーカイブデータベース
  • 国民新聞の発表。巴里博覧会出品(監査合格の続)」『国民新聞』東京文化財研究所 (転載)、1899年10月29日(明治32年)、5 (雑報)。2019年7月9日閲覧。 東文研アーカイブデータベース

脚注

注釈

  1. ^ 北村醤油酒造場製造は、享保2年に当時の勢和村(現・多気郡)で創業。今日、ソイソースという名で欧米のスーパーマーケットで売られ、すっかり馴染んだ醤油だが、このパリ万国博覧会出品は海外に売り込んだ草分けであったか。

脚注

  1. ^ a b c d パリ万国博覧会と19世紀の終わり(20世紀ポップカルチャー史)
  2. ^ 商品ネーミング 事例:エスカレーター(商品ネーミングの普通名称化)
  3. ^ ジェシー・リノ Jesse Reno の海底クローラ(蛇乃目伍長)
  4. ^ 19世紀を総まとめ 1900年パリ万国博覧会 Exposition Universelle( クリストモミのミュゼのあるくらし)
  5. ^ 1900年第5回パリ万博 19世紀最大の万博(国立国会図書館:博覧会 近代技術の展示場)
  6. ^ 20世紀の幕開けを告げるパリ万博ポスター(公益財団法人福岡市文化芸術振興財団)
  7. ^ 漱石とパリ”. 熊本大学文学部附属漱石・八雲教育研究センター (2019年3月21日). 2025年4月21日閲覧。
  8. ^ Holmes 1901, p. 249.
  9. ^ "Libr@ries: Changing Information Space and Practice"Cushla Kapitzke, Bertram C. Bruce, Psychology Press, 2006 p134
  10. ^ a b Musique et langue du Japon : enregistrements historiquesフランス国立図書館
  11. ^ a b 歴史探偵 万博と日本 - NHKプラス”. NHK. 2025年4月23日閲覧。
  12. ^ 『千九百年巴里万国博覧会臨時博覧会事務局報告 上』p.879,農商務省,1902年
  13. ^ 『千九百年巴里万国博覧会臨時博覧会事務局報告 下』p.491,農商務省,1902年
  14. ^ 東京国立博物館 - 展示・催し物 展示 本館(日本ギャラリー) 明治時代の日本美術史編纂”. 東京国立博物館. 2025年5月5日閲覧。
  15. ^ a b 植野健造 2005.
  16. ^ Holmes 1901, p. 257.
  17. ^ 『千九百年巴里万国博覧会臨時博覧会事務局報告 上』p.900,農商務省,1902年
  18. ^ a b 三島雅博; 神戸大学 (1993年3月31日). “明治期の万国博覧会日本館に関する研究〔博士論文 (工学)〕”. 国立国会図書館デジタルコレクション. doi:10.11501/3092500. 2019年7月13日閲覧。
  19. ^ 『千九百年巴里万国博覧会臨時博覧会事務局報告 上』p.835,農商務省,1902年
  20. ^ Bournazel, Philippe (2011年1月31日). “SECTEUR 7: LE PARC DU TROCADERO” (フランス語). L'EXPOSITION UNIVERSELLE DE PARIS 1900. オリジナルの2015-01-09時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150109081144/http://exposition-universelle-paris-1900.com/SECTEUR_7 
  21. ^ 『千九百年巴里万国博覧会臨時博覧会事務局報告 上』p.901,農商務省,1902年
  22. ^ 『千九百年巴里万国博覧会臨時博覧会事務局報告 上』p.645,農商務省,1902年
  23. ^ a b c d e f g h 植野健造氏作成「白馬会関係新聞記事一覧」(データベース作成:東京文化財研究所)による。巴里博覧会出品の美術作品 (1899(明治32)9月日6日「毎日新聞」掲載”. 東文研アーカイブデータベース (転載). 東京文化財研究所. 2019年7月9日閲覧。 “日本画(五十五点)、西洋画(三十点)、版画(二点)、牙彫(五点)、木彫(十一点)、金属彫(七点)、建築(一点)”
  24. ^ 雪丸夏雄 (1899年11月12日). “白馬会展覧会(一): 読売新聞第3面「展評」”. 東文研アーカイブデータベース. 2019年7月10日閲覧。
  25. ^ a b 国民新聞: “白馬会展覧会(二):展評(6面)”. 東文研アーカイブデータベース. 国立文化財機構 (1899年11月1日). 2019年7月13日閲覧。
  26. ^ 国民新聞: “白馬会展覧会(三): 展評”. 東文研アーカイブデータベース. 国立文化財機構 (1899年11月2日). 2019年7月13日閲覧。
  27. ^ a b c d e f “巴里博覧会出品(監査合格の続)”. 国民新聞: p. 5 (雑報). (1899年10月29日(明治32年)). https://www.tobunken.go.jp/materials/hakuba/201718.html  {{cite news}}: |date=の日付が不正です。 (説明)「水彩画の部と美術学校生徒作出品の部」の合格者を掲載。「藤原式室内装飾図」(関保之助)、「徳川式室内装飾図」(島田佳矣)と「西洋建築図 案」という記述がある。
  28. ^ 日本画家:跡見玉枝:没年月日:1943/08/07”. 東文研アーカイブデータベース. 2019年7月10日閲覧。
  29. ^ 日本画家:伊東紅雲:没年月日:1939/04/02”. 東文研アーカイブデータベース. 2019年7月10日閲覧。
  30. ^ 小代為重 :”. 東文研アーカイブデータベース. 国立文化財機構. 2019年7月10日閲覧。
  31. ^ 2-D:庄野宗之助:日本書画名覧”. 東文研アーカイブデータベース. 2019年7月10日閲覧。
  32. ^ 国民新聞: “白馬会展覧会(一):展評(6面)”. 東文研アーカイブデータベース. 国立文化財機構 (1899年10月30日). 2019年7月13日閲覧。
  33. ^ コトバンク・沼田一雅では鋳銅「猿廻し置物」が1等金牌を受賞、とある
  34. ^ Bournazel, Philippe (2013年7月25日). “PANORAMA DU TOUR DU MONDE” (フランス語). L'EXPOSITION UNIVERSELLE DE PARIS 1900. オリジナルの2015-01-09時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150109143044/http://exposition-universelle-paris-1900.com/PANORAMA_DU_TOUR_DU_MONDE 
  35. ^ a b c Benjamin 2003, p. 114.
  36. ^ Holmes 1901, p. 299.
  37. ^ Holmes 1901, p. 303.

関連文献

  • 『甦るオッペケペー : 1900年パリ万博の川上一座』川上音二郎一座 [演] (CD)、東芝EMI 1997年。
  • 『ガレ, ドームとヨーロッパコレクション : アール・ヌーヴォーの華』[そごう]、2000年。
  • 『千九百年巴里万国博覧会臨時博覧会事務局報告 : 明治33年開催・1900年パリ万博報告書』農商務省(編纂)、 東京 : フジミ書房、2000年。 1902年(明治35)年の復刻。
  • 井上さつき『音楽を展示する : パリ万博1855-1900』法政大学出版局、2009年。

関連項目

外部リンク


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