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畑仙齢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/21 19:09 UTC 版)

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畑 仙齢(はた せんれい、慶応元年4月15日1865年5月9日[1][2] - 昭和4年(1929年3月30日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家

略歴

慶応元年(1865年)4月15日に畑在周の長男として京都に生まれた。本名は経長。字は子益。半象外史とも号す。父は有職故実に長けており幼時からその薫陶を受けた。始めは岸竹堂に師事し、神山鳳陽の塾で詩経を学んだ。後に鈴木百年に師事、日本美術協会展覧会などに作品を出品して入選を重ねた。鈴木松年今尾景年久保田米僊と並んで百年門下の四天王と称された。

明治24年(1891年)に百年とともに上京し、平福穂庵追善伝利画会のため、菅原白龍とともに秋田へ行った。その帰途12月の暮れに東京池之端に滞在した折、師の百年が客死した。これを機に仙齢は京都へは戻らず、東京の麹町に居を定め、半蔵門外に彩雲堂画塾を開いた。上京後の仙齢は東京在住の青年画家たちと広汎に交流し、明治25年(1892年)の第1回日本青年絵画協会共進会の際には25名の審査員の内の一人に選ばれている。明治29年(1896年)、第1回日本絵画協会共進会の審査員にも選ばれた。明治33年(1900年)のパリ万国博覧会には「水墨山水」を出品するなど東京画壇の中心作家として活躍した。また、富山県立工芸学校図案科の教師として赴任、教頭も務め、明治35年(1902年)の暮れまで教鞭をとった。その後、東京に帰ってから後は専ら日本画会に出品した。明治44年(1911年)には中国を漫遊、昭和4年(1929年)3月30日に東京麹町にて没した。

脚注

  1. ^ 和暦・西暦対照表〔1865年1月1日(元治元年12月4日)~1866年12月31日(慶応2年11月25日)〕、2018年8月9日閲覧。
  2. ^ 『20世紀日本人名事典』による。

参考文献

  • 日本美術院百年史編集室編 『日本美術院百年史 一巻上』図版編 日本美術院、1989年
  • 日外アソシエーツ編 『20世紀日本人名事典』 日外アソシエーツ、2004年



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