上田電灯の合併
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1910年(明治43年)3月になり、長野電灯との間に長野県知事などの調停によって供給区域の棲み分けに関する契約が成立した。その内容は、信濃電気は長野市内における設備・供給権を長野電灯へと売却するが、長野電灯は信濃電気から最低200 kW・最大1,000 kWの電力を購入する、というものである。協調関係の成立により信濃電気は長野市内進出を断念し、1910年5月に長野支店も廃止した。こうして長野市内への進出が不可能となった信濃電気では、県内の東信地方に販路を求めて翌1911年(明治44年)上田電灯の合併に踏み切った。この上田電灯は、先に触れた通り信濃電気よりも古い県内5番目の電気事業者にあたる。 上田電灯株式会社は、1900年(明治33年)10月14日、小県郡上田町(現・上田市)に資本金5万円で設立された。設立時の役員はほとんどが上田の人物で、南川治三郎が専務取締役を務める。上田電灯では信濃川水系神川を利用する水力発電所を小県郡神科村に建設し、1902年8月11日より上田町への電灯供給を開業した。当初の発電所は畑山発電所といい、出力は開業時60 kW、1904年4月以降は120 kW。これを電源に2000灯余りの電灯を取り付けたが、供給区域内の人家に対し約3分の1に点灯した時点で新規需要に応じられなくなったことから、神川上流側にあたる小県郡長村での新発電所建設を計画、横沢発電所として1910年11月に竣工させた。新発電所の出力は400 kWである。 上田電灯の経営陣は設立以来頻繁に交代しており、1902年の役員録では長野市の森田斐雄が社長を務める(取締役の一人に戸倉の坂井量之助)とあり、1905年時点では北佐久郡小沼村の中山禎次郎が、1907年時点では小県郡県村の小野栄左衛門が社長である。会社の資本金は最終的に20万円となった。信濃電気との合併交渉は、1911年7月に発生した土砂崩れによって横沢発電所が発電停止に陥った際に、信濃電気から派遣された技師の助力を得たことを契機として始められた。当時、上田電灯は横沢発電所完成を機に上田周辺地域へと拡大中、信濃電気は小県郡南部への進出を計画中であった。両社は8月合併仮契約調印に至り、3か月後の同年11月22日付で信濃電気は上田電灯を合併した。合併に伴う信濃電気の増資は20万円。信濃電気は合併後の29日付で上田町に支店を開設している。 上田電灯合併前の1911年4月、信濃電気では75万円の増資を決議した(ただし増資手続きの結了は合併後の1912年2月)。上田電灯合併分とをあわせて信濃電気の資本金は145万円となっている。経営面では加えて小野木源次郎が翌1912年(大正元年)12月に取締役から退き、若松市長へと転じた。翌1913年(大正2年)1月、補欠取締役に丸山盛雄が選任される。1915年時点の役員録には越寿三郎が社長、丸山が副社長を務めるとある。丸山は南安曇郡豊科町(現・安曇野市)の人物で、元長野県会議員である。 上田電灯の合併とあわせて信濃電気の供給区域は東信地方のうち上田地域やその外縁部へと拡大した。上田地域では1911年11月より小県郡丸子村(現・上田市)や県村(現・東御市)などでの供給を始め、次いで1914年(大正3年)7月より小県郡南部の長久保新町(現・長和町)でも点灯。既存区域と上田方面の間にある埴科郡坂城町では1912年(明治45年)5月末より、同郡戸倉村(現・千曲市)では1913年11月よりそれぞれ供給を開始している。その一方、上田地域の東側にあたる東信地方佐久地域には長野電灯が進出し、北佐久郡岩村田町(現・佐久市)に佐久支社を設置して1912年12月より開業しており、信濃電気の供給区域には入っていない。
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