三十年戦争以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 17:17 UTC 版)
街の歴史の転換点は、修道院に対する抵当権を喪失した1529年に訪れた。三十年戦争はノルトハイムも見過ごしにはしなかった。1626年には皇帝軍によって3度も包囲された。最初は4月8日から17日にかけてマルティーニ隊長の率いる軍に、次いで8月6日から10日にかけてブランカルト隊長の軍に包囲された。3度目の包囲戦は、9月からフュルステンベルク伯とブランカルト隊長によるものであった。その翌年、ノルトハイムは降伏し、300人の駐留兵を受け容れ、週300ターラーの食料費を供給しなければならなかった。カトリック軍の将軍ティリー伯は、ノルトハイムの防衛施設の破壊を命じ、防塁の解体、内堀の埋め立てがなされて満足したのは1629年になってからであった。1641年はノルトハイムにとって陰惨な年であった。武装解除されたこの街がピッコロミーニ将軍に襲撃され、情け容赦なく略奪され、多くのノルトハイム市民が犠牲となった。以前の経済的繁栄は、遅くとも三十年戦争によって終焉し、その後は衰退し、貧困化していった。 1702年、市議会の主権は解消され、領邦君主の支配下で市参事会制度に置き換えられた。戦争で生じた空き地は18世紀前半に国が奨励する建設プログラムによって姿を消した。この世紀の後半には、市長ヨハン・アハターキルヒェンの下、模範的な行政運営がなされた。ガルデキュアラジーア通りの九の地にわずかに遺る墓の一つがアハターキルヒェンの墓である。1773年、古い市門が、新しく広い門に建て替えられた。これは新しいヘール通りの建造に合わせて必要だったのである。1803年、いわゆるゲズントブルンネン(健康の泉)沿いに硫黄泉が発見された。ヴェストファーレン王国時代(1807年 - 1813年)、ノルトハイムはライネ県ゲッティンゲン管区に属した。最初の新聞は「ノルトハイマー・ヴォーヒェンブラット」で、1831年から発行されている。その翌年に市の中心部で甚大な火災があり、46件の住宅、薬局、豪華な市庁舎が犠牲になった。市庁舎を失ったこの街は1842年にエンテンマルクト沿いのルーマニア貴族の館を購入し、この館は20世紀半ばまで市庁舎として利用された。1848年、とうの昔に重要性を失っていた市門がついに取り壊された。この同じ年に市民軍が組織され、現在も存続している体操クラブが設立された。19世紀後半、ノルトハイム郡の設立によって、この街に広域の行政本部が置かれた。 この頃、街の経済的重要性が再び増していった。1854年にハノーファーからゲッティンゲンへの鉄道が開業し、南向きの市壁が開けられて新設された軍病院への入り口にいたるクルツェン通りがここに通された。病院としての機能は、20世紀になるまでこの建物に保持されていた。1950年代にヴィーター・エンデに新しい建物が建設され、病院はここに移転した。これにより開いた古い病院の建物は市役所として利用された。現在のヴィーター通り付近の市壁が取り壊されたことで、ベルク・ヴィーターは1867年に住宅地として開発された。1868年の鉄道南ハルツ線開通に伴って駅が設けられた。1878年にゾリング鉄道が開業し、ノルトハイムは重要な乗り継ぎ駅となった。鉄道はその後、この街の発展に寄与した。1883年、ノルトハイマー・ベルクの山頂に、現在もハイキングの目的地として人気のヴィーター塔が建設された。1890年には市立博物館が設立された。1892年からノルトハイムの工業化が、特にタバコ産業と製糖業の分野で始まった。さらに大規模な浄水施設ルーメミューレが造られた。同じ1892年にノルトハイムはまたしても火災に襲われ、マルクト広場の東側の家屋とブライテン通り東部の北側が大きな被害を受けた。現在マルクト広場沿いに歴史主義様式の石造建築が比較的多いのはこのためである。
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