一点ものとしての源氏物語礼讃歌
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「源氏物語礼讃歌」の記事における「一点ものとしての源氏物語礼讃歌」の解説
与謝野晶子は当初、この「源氏物語礼讃歌」を活字化するつもりはなかったらしく、先の大正9年1月25日付小林一三宛与謝野晶子書簡には「私の死後、遺稿集でも出すときに入れて欲しい」といった記述がある。その後この「源氏物語礼讃歌」は、「屏風」・「短冊」・「歌帖」・「巻物」などさまざまな形態での配布が行われたものの、これらはいずれもそれぞれ「一点もの」として作られ、ごく親しい人に個人的に送るためのものであった。 1920年(大正9年)3月11日付け小林天眠宛の与謝野晶子書簡によれば、歌人でもある九条武子にも送られていたと考えられる。 1920年(大正9年)春になって、与謝野夫妻の最大のスポンサーである小林天眠に送られたものもあり、これは晶子和歌短冊『源氏物語五十四帖』(大正9年春4月日付)として、現在京都府立総合資料館の小林天眠文庫の所蔵となっている。なお、この短冊について、晶子が「柏木」巻の和歌を書いた際に書き損じてしまい、同じ料紙が手に入らなかったためこの1枚だけ別の料紙に書いて送ったが、後に同じ料紙が手に入ったとして書き直して送っている。この2つの和歌短冊は、料紙が異なるだけでなく、和歌そのものが当初送られたと見られる和歌が「死ぬ日にも罪むくひど知るきはの涙に似ざる火のしづくおつ」、後に改めて送られたと見られる和歌が「二ごころ誰先づもちて恋しくも淋しき夜をばつくり初めけん」と、それぞれ全く異なるものになっている。小林天眠は当初送られてきた短冊と後で送られてきた短冊との両方を保存したため、現在も京都府立総合資料館の小林天眠文庫所蔵の晶子和歌短冊『源氏物語五十四帖』には柏木の和歌短冊が2巻含まれている。なお、京都府立総合資料館の小林天眠文庫には、この他に制作年月日不明の晶子歌帖『源氏物語礼讃』も所蔵されている。 1921年(大正10年)11月発行の第2期『明星』第4巻第2号には、「与謝野夫人作歌並書」である『源氏物語礼讃』の広告が掲載されている。これは「平安朝文学に精通し『源氏』、『栄華』の両物語の味解において現代の第一人者たる与謝野夫人」が「源氏物語の各帖を賛美して54首の歌を作り、これを自ら色紙に書して優麗香雅なる高島屋特製の豪華な装丁を施した「空前の一大歌帖」を桐箱に入れたもの」とされており、これを希望する申込先着者1名に限り価格350円にて頒布する旨の広告が掲載されている、これは実際に申込先着者に販売されたという。同種の広告は1939年(昭和14年)9月発行の『冬柏』にも掲載されている。 1934年(昭和9年)1月25日付け与謝野鉄幹の菅沼宗四郎宛書簡には、「石井、正宗、山下三氏の絵に讃歌を認め候」とあり、石井冬拍らの絵にしたためたものもあったと見られる。 1939年(昭和14年)10月に開催された「新新訳源氏物語完成記念祝賀会」の案内においても、54首のうちいずれか1首の揮毫された短冊が金5円、全54首すべてが揮毫された巻物が金100円、特別仕立の巻物を金200円にて販売する旨記されている。これは晶子の高弟平野万里の発案によるものであり、このとき販売された巻物のひとつは堺市博物館の所蔵に、このときは屏風に仕立てたものもつくられたらしく、その一つは現在神戸親和女子大学付属図書館の所蔵になっている。また、紫式部の邸宅跡である京都市上京区の廬山寺にも巻物が寄贈されており、これも1939年(昭和14年)の晶子による書とみられている。
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