ヴェルニーの奔走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:58 UTC 版)
「横須賀海軍施設ドック」の記事における「ヴェルニーの奔走」の解説
わずか27歳にして一大プロジェクトを任されたヴェルニーは、フランスで横須賀製鉄所建設に必要となる機械と人材の確保に奔走した。ヴェルニーの前には一儲けをもくろむ機械を売り込もうとする商人や、技術者が大勢おしかけたというが、ヴェルニーは彼らを一切相手にすることなく自らの目で機械と技術者を選んでいった。当初若いヴェルニーに一大プロジェクトを任せることに不安を感じていた多くの幕府要人たちも、そのようなヴェルニーの姿に信頼感を深めていった。 ヴェルニーがフランスで横須賀製鉄所建設に必要となる機械と人材の確保に奔走する間、横須賀では製鉄所の建設工事が始まっていた。慶応元年9月27日(1865年11月15日)には横須賀製鉄所の鍬入式が挙行され、製鉄所建設予定地の整地が開始された。土木作業では経費節減のために人足寄場の人足を動員してみたが、土木作業の経験が全くない者が多かったため著しく作業効率が悪く、1年ほどで中止となった。なお後の明治政府も財政難のため改めて人足寄場の人足を動員する。そのような中、慶応2年(1866年)5月、ヴェルニーは日本に戻り、本格的に横須賀製鉄所建設事業に取り組むことになる。 ヴェルニーは横須賀製鉄所の中核施設となるドライドックの建設に際し、様々な点について検討し、決定していった。まずその立地である。1号、2号、3号ドックはそれぞれ隣接しているが、ドック建設時に小さな入江をいくつか埋め立てはしたものの、基本的に埋立地ではなく地山であり、特に2号ドックから3号ドックにかけては標高約45メートル程度の白仙山と呼ばれていた丘を切り崩している。続いて建設予定地の土質については、更新世に形成された、粘着度が強くかつ水を通しにくいシルトが固結した軟岩の土丹と呼ばれる種類の強固な土質であり、掘削が困難という欠点はあるものの、ドックの建設中に大規模な土留めを必要とせず、さらに建設後はほぼ全体が海水面下となるドック本体が生み出す浮力によって発生する不等沈下が起こりにくい、ドックの安定性、耐久性を保つには最高といえるものであった。1号ドックは1877年(明治10年)に渠口部が崩壊する事故が発生したものの、その後関東大震災時にも地盤の液状化現象などによる大きな破損を生じることはなく、これはドック建設場所の地盤の良さを示している。 さらにドライドックを建設するに当たり、考慮せねばならないのが風向きである。通常ドライドックは主に風が吹く向きに建設される。これは船舶が出入渠する際に横風が当たるのを防ぎ、船舶が入渠して排水が終わってから船体全体が乾くまでの時間をなるだけ短くして作業の効率化を図り、さらに作業中常に風が吹き込むようにして入渠した船舶とドックの床面や側面が常に乾いた状態にして、作業が進めやすい環境にする意味合いがある。そのため建設地での風向きを把握した上で、ドックの設計がなされることになる。 ヴェルニーがドライドック建設に際してとりわけ心を砕いたのが、ドライドックに用いる石の選定であった。ヴェルニーは慶応3年(1867年)の4月から5月にかけて、武蔵、相模、伊豆の各地の石材産地を回り、ドック建設に適した石材探しに奔走した。結局現在の神奈川県真鶴町から静岡県熱海市にかけて産する、安山岩質の本小松石が最適であると判断し、ドック建設に使用されることになった。
※この「ヴェルニーの奔走」の解説は、「横須賀海軍施設ドック」の解説の一部です。
「ヴェルニーの奔走」を含む「横須賀海軍施設ドック」の記事については、「横須賀海軍施設ドック」の概要を参照ください。
- ヴェルニーの奔走のページへのリンク