ヴァンダレイ・シウバとの闘い - PRIDE離脱
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「桜庭和志」の記事における「ヴァンダレイ・シウバとの闘い - PRIDE離脱」の解説
2001年3月25日、PRIDE.13でヴァンダレイ・シウバと初対戦し、この大会から解禁されたサッカーボールキックでTKO負け。再起戦となったPRIDE.15では初参戦のクイントン・"ランペイジ"・ジャクソンと対戦、ジャクソンのパワーに苦戦するも、最後はスリーパーホールドで一本勝ちを収めた。 2001年11月3日、PRIDE.17でPRIDEミドル級王座が新設され、同時にPRIDEミドル級の設定が93 kgとルールに追加された。当時の桜庭の通常体重は85 kg前後で、桜庭が希望していたミドル級は90 kg以下だったが、以後のPRIDEで、桜庭はこの条件で戦っていくことになった。PRIDE.17ではミドル級王座を賭けてヴァンダレイ・シウバと再戦するが、シウバの投げでマットに叩きつけられた際に左肩を脱臼しTKO負けで王座獲得に失敗した。翌2002年8月28日にはDynamite!のメインイベントでミルコ・クロコップと対戦、下からの蹴り上げで眼窩底骨折に追い込まれ、ドクターストップによるTKO負けを喫した。総合格闘技でのキャリア初の連敗となった。その後も膝と肩に慢性的な故障を抱え、出場が不安定な時期が続く。 ホイスを破った2000年からこの時期にかけては、後述のローカルのミニ番組ながら冠番組の『39 LOVER'S』を持ち、『情熱大陸』や『トップランナー』、CMにも出演し、国税庁発表の高額納税者公示制度では2001年度に納税額2638万円、推定年収7755万円に。2002年度にも納税額1014万円で、推定年収3336万円でランクインした。 2002年11月24日、PRIDE.23左足腱断裂、右目眼窩底骨折が完治しないまま強行出場。ジル・アーセンに勝利した。 2003年3月16日、肩と膝の負傷を乗り越え完全復帰。PRIDE.25で、ニーノ・シェンブリと対戦。激しい打撃でシェンブリの顔面に裂傷を起こしたが、1R膝蹴りでTKO負けを喫した。 2003年8月10日、ミドル級グランプリに出場、シウバと3度目の対戦が行われた。この試合は桜庭が大幅に体重を増量させて挑んだ一戦であった。試合はスタンドで打ち合う展開が続くが、1R5分、桜庭のローキックにシウバのカウンターの右フックを打ち込まれて失神KO負け、対シウバ戦3連敗となった。 2003年12月31日、PRIDE SPECIAL 男祭り 2003のメインイベントでアントニオ・ホジェリオ・ノゲイラと対戦した。負傷中の身ながら時間切れまで追い込んだが、判定負けを喫した。開催前には、UWFインターナショナル時代の先輩である田村潔司との対戦オファーがあるも、田村が準備期間の短さを理由に拒否したため実現しなかった。 2004年6月20日、PRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUNDにおけるワンマッチに2004年唯一の出場。ニーノ・シェンブリと再戦し3-0で判定勝ち。 2004年12月31日のPRIDE 男祭り 2004ではヴァンダレイ・シウバとの4回目の試合が予定されていたが、膝と肩の状態が悪く欠場した。 2005年2月20日のPRIDE.29で、アリエフ・マックモドと対戦し、精彩を欠いた勝利に終わった田村潔司に対し、リングサイドから「こんな試合じゃつまらないでしょう。田村さん、僕と勝負してください」とマイクアピールをしたこともあったが、田村は無言でうつむいたままリングから去っていくなど、対戦を何度か申し込むもなかなか実現には至らず。 2005年、ミドル級グランプリに出場し、1回戦ではユン・ドンシクを1R26秒で破り、2回戦ではヒカルド・アローナと対戦。パワーと体重差の影響もあり劣勢に追い込まれ、アローナの膝蹴りの連打により流血、2R終了時には顔面が大きく変形する程のダメージを負った。自力で起き上がることもできず、タオルが投入された。試合後病院に搬送された。この試合を契機に主戦場としていた「ミドル級(-93 kg)」は桜庭の適正体重に比べて重すぎるので「ウェルター級(-83 kg)」に転向すればいいのではないのか、というファンや関係者からの声があがった。だが桜庭は「ミドル級より軽い階級には興味はない」と語っていた。 2005年8月、ブラジルに渡航しシュートボクセアカデミーで40日間に渡り出稽古を行う。PRIDE.30においてケン・シャムロックをシュートボクセ仕込みの打撃でTKOした際は、CBA会長のフジマール・フェデリコと抱きあって共に勝利を喜んでいる。 2005年12月31日、PRIDE 男祭り 2005で美濃輪育久と対戦し、アームロックでTKO勝ち。この試合が最後のPRIDE出場となった。 2006年、株式会社39を設立。 2006年3月31日、8年2か月所属した髙田道場を契約満了により退団。フリーランスとなり、高田道場時代の後輩の豊永稔、高橋渉、佐藤豪則と行動を共にする。
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