ロードレース世界選手権125ccクラス
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「ドミニク・エガーター」の記事における「ロードレース世界選手権125ccクラス」の解説
ロードレース世界選手権125ccクラスには、2006年シーズンの終盤にマルチメディア・レーシングより同郷のヴァンサン・ブライヤールの代役として2戦に出場したのがデビューとなった。 2007年より同チームよりフル参戦を開始した。ラファエレ・デ・ロサとシモーネ・グロツキーをチームメイトに戦ったこの年は、ウェットレースとなった第15戦日本GPで11位に入ったのがベストリザルトとなり、シリーズランキング23位を記録した。 2008年にはアジョ・モータースポーツに移籍、チームメイトはこの年のチャンピオンとなるマイク・ディ・メッリオだった。ディ・メッリオがファクトリー仕様のデルビ・RSA125を駆った一方、エガーターに与えられたのはカスタマー仕様のRSW125だったが、3度8位に入ったのがベストリザルトとなり、シリーズ16位と成績を伸ばした。 2009年もアジョに残留。チームメイトにサンドロ・コルテセを迎え、このシーズンは2人ともにRSA125が与えられた。エガーターはウェットレースとなった第4戦フランスGPでベストリザルトの6位を記録、全レースを完走する安定度を見せてシリーズ13位に入った。
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ロードレース世界選手権125ccクラス
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「小山知良」の記事における「ロードレース世界選手権125ccクラス」の解説
2005年よりアジョ・モータースポーツよりロードレース世界選手権125ccクラスにフル参戦を開始。プライベーターながら2度表彰台を獲得する好成績を残し、ルーキー・オブ・ザ・イヤー賞を獲得した。2006年はアジョ・モータースポーツを母体とするマラグーティワークスチーム(実質プライベータ-)、マラグーティ・アジョコルセより参戦。戦闘力の低いマシンで苦戦を強いられたが、2007年は実力を高く評価したKTMワークスチームに移籍。トップクラスのマシンを得たことで成績は大きく向上し、第7戦カタルーニャGPで初優勝を達成した。 しかし2008年は不振が続き、第16戦オーストラリアGPを前に突如所属チーム(ISPA KTM アラン)を解雇されてしまう。理由はメインスポンサーであるスペインの電話会社「11888」から、シーズン残りの3戦にスペイン人選手を起用するよう求められたことによる。第17戦からKTMワークスに起用され復帰したが、結局シリーズ17位にとどまった。 2009年は中国メーカーのロンシンに移籍した。しかしマシンの完成度は低く、エンジンがいつ焼き付いてもおかしくなかったため常にクラッチレバーに指を掛けて走行するほどであり、完走もままならずリタイヤ続きで、シリーズ24位と結果を出せなかった。 2010年はレーシング・チーム・ジャーマニーに移籍し、引き続き125ccクラスに参戦した。マシンは型落ちのアプリリアRSW125、これは小山にとって全日本時代から数えると通算6つめのメーカーとなった。最新型ファクトリーマシンのRSA125が多数参戦する中、開幕戦からシングル順位フィニッシュを続ける健闘を見せ、チームの地元レースの第8戦ドイツGPでは2位フィニッシュを果たし、2007年のマレーシアGP以来となる表彰台に立った。この年のシリーズランキングでは8位、これはRSW勢の中ではトップ、RSA勢14人中7人を上回る成績となった。 翌2011年シーズンに向けて小山はレーシング・チーム・ジャーマニーに残留し、最新のRSA125を駆る方向で話が進んでいた。しかし前年ランキング7位のサンドロ・コルテセが20万ユーロ以上のスポンサー資金を持ち込んでチームに加入した。小山はこの影響を受け、これまでは資金持ち込み無しで話が進んでいたが、新たに35万ユーロを要求されることとなり交渉は決裂、グランプリ参戦継続を断念することとなった。
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ロードレース世界選手権125ccクラス
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「ヤコブ・コーンフェール」の記事における「ロードレース世界選手権125ccクラス」の解説
ルーキーズカップの2009年シーズン閉幕後、コーンフェールはロードレース世界選手権125ccクラスにデビューを果たした。アレクシ・マスボーに代わりロンシンチームのレギュラーシートを確保し、小山知良をチームメイトに第13戦サンマリノGP以降の終盤5戦に出場した。マシンのパフォーマンスが低かったこともあり、ベストリザルトは第16戦マレーシアGPでの19位に留まりポイント獲得は果たせなかった。 翌2010年シーズンは小山と共にレーシング・チーム・ジャーマニーに移籍、型落ちのアプリリア・RSW125を駆ることになった。ベテランの小山ほどの活躍は残せなかったが、コーンフェールはウェットレースとなった第10戦・地元チェコGPでベストリザルトとなる5位に入賞、年間ランキングでは17位を記録した。 2011年はオンガッタ・セントロ・セタチームに移籍、引き続きRSW125を駆ってフル参戦2年目のシーズンに臨む。
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