グランプリ参戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 21:32 UTC 版)
1922年秋、いよいよアルファロメオは念願のグランプリマシン開発をメロージに命じた。こうして出来たのが「G.P.R(グラン・プレミオ・ロメオ)」またの名を「P1」と呼ばれるマシンで、1923年(英語版)に発効した排気量2L以下、車重600kg以上というフォーミュラに適合していた(=6気筒1,990ccDOHC、80PS/4,800rpm、850kg)。このマシンは前年のグランプリを征して傑作マシンと謳われた「フィアット・804(イタリア語版)」を徹底的にコピーしたもので、デビュー戦は1923年9月9日のヨーロッパ・グランプリ(英語版)(イタリア・モンツァ)と決まった。しかし、初のグランプリ前日に、あろうことかエースドライバーのウーゴ・シボッチが練習走行中に事故死した。操縦性に問題があったとされ、チームはレースを棄権して引き上げざるを得なかった。なおこの時車体にはクアドリフォリオのマークは描かれておらず、お守り代わりとして事故後に全てのワークスマシンに描かれることとなったクアドリフォリオのベースマークは四角形からシボッチを失った事を意味する三角形に変更されて現在に至る。 ちなみにこのレースはフィアット805(スペイン語版)に乗るカルロ・サラマーノ(英語版)とフェリーチェ・ナザーロ(英語版)がワンツーフィニッシュを飾ったが、これはスーパーチャージャーつきマシンの最初の勝利で、以後スーパーチャージング全盛時代は戦後のF1グランプリ発効後もなお続いた。 さて、失望のどん底にあったチームは、先にフィアットのレーシングチームを辞してアルファロメオに加わっていたバッツィ(イタリア語版)のアイデアで、804のプレパレーションも行ったスーパーチャージャーのスペシャリスト、ヴィットリオ・ヤーノをフィアットから引き抜くことにした(エンツォ・フェラーリは、これを自分の手柄としているが、ヤーノ自身の述懐によれば、事実はまったく異なる)。実はこのころ、名門のフィアットチームでは内部の紛争が原因で、技術面を支えてきた有力メンバーの離脱が相次いでいた。
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