レッド川方面作戦とは? わかりやすく解説

レッド川方面作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/05 03:27 UTC 版)

ナサニエル・バンクス」の記事における「レッド川方面作戦」の解説

レッド川方面作戦(1864年3月-5月)はバンクスの上官であるグラント戦略的陽動考えたものであり、1864年春の一連の協働攻勢作戦一部として、バンクスには東に侵攻しアラバマ州モービル占領望んだバンクス自身はその作戦同意できず、その代わりガルベストン占領望んだが、参謀総長ヘンリー・ハレックら行動の命令が来た。ハレック作戦リンカーン内閣承認されており、バンクス職務嫌々ながらそれに従ったバンクス軍は南軍リチャード・テイラー(元大統領ザカリー・テイラー息子)のためにマンスフィールドの戦い大敗喫し20マイル (32 km)後退して翌日プレザントヒルの戦い踏みとどまったバンクス軍はアレクサンドリアまでの後退続け、そこで北軍内陸艦隊一部再結集した。デイビッド・ディクソン・ポーター指揮する海軍南部綿花金になる戦利品として取るためにレッド川方面作戦に加わりバンクス金持ち投機家綿花集めるために従軍許していた。この混成部隊アーカンソー州から陸路を辿れなかった共同軍が加わりウィリアム・シャーマン属す2つ軍団半ば独立した行動を採り、またこの軍隊が頼る川の水面は危険なくらい低かったバンクスその後退を続けるためにポーター艦隊頼ったが、ポーター艦隊は低水位のためにアレクサンドリアの滝以上は進めなかった。バンクスはジョセフ・ベイリーの提案した計画承認し水路残され僅かな上げ手段として突堤造ることにした。10日間に放火浴び1万名の兵士2つの堤を造り、なんとかポーター艦隊バンクス軍を救出したこの方作戦の後シャーマン将軍はそのアトランタ対す作戦開始する直前だったが、シャーマンはレッド川方面作戦のことを「初めから最後まで最悪しくじり」と呼んだバンクスはレッド川方面作戦の後で指揮官から外された。 南軍戦争残り期間レッド川保持し続けた。その部隊ロバート・E・リーバージニア州アポマトックス・コートハウス休戦求めたその2ヵ月後、1865年6月最終的に降伏した

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レッド川方面作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/02 14:02 UTC 版)

ジェンキンスフェリーの戦い」の記事における「レッド川方面作戦」の解説

1864年3月ナサニエル・バンクス少将指揮下のルイジアナ州にいた北軍陸軍と、デイビッド・ディクソン・ポーター少将率いたミシシッピ川活動する海軍が、レッド川方面作戦を始めた。この作戦直接目的は、南軍ミシシッピ圏方面軍指揮官エドマンド・カービー・スミス将軍作戦本部であるルイジアナ州シュリーブポート占領することだった。シュリーブポートアメリカ連合国ルイジアナ州暫定州都でもあり、主要物資補給地かつテキサス州への入り口でもあった。この作戦二次的な目的は、北部州不足していた綿花手に入れることであり、それによって川沿い農園主から北軍対す忠誠心を得ることだった。この行動ルイジアナ州におけるレコンストラクション展開できるとも考えられた。この作戦考えた北軍総司令官ヘンリー・ハレック少将は、北軍によるテキサス占領への道を開きフランス軍メキシコから侵略して来られないようにすることを望んでいた。フランス1863年6月メキシコ侵略して占領しており、傀儡皇帝マクシミリアン皇帝の下に政府作り上げていた。 エイブラハム・リンカーン大統領がレッド川方面作戦を承認した後に、ユリシーズ・グラント中将総司令官昇進しグラントはこの作戦止められない感じたグラントウィリアム・シャーマン少将が北ジョージアからアトランタ軍隊繰り出すときの支援のために、この作戦宛てる1万名の部隊使おう思ったので、作戦の実行急がせようとしたグラントまた、南軍強固な砦であるアラバマ州モービル攻撃することで南軍釘付けにしてしまおうとも考えたバンクス将軍この方作戦のためにニューオーリンズ市近く少なくとも2万名の部隊利用できた。ミシシッピ州ヴィックスバーグにいるシャーマン軍隊からは、アンドリュー・J・スミス准将指揮下に1万名の部隊が加わることになっていた。スミス部隊レッド川遡るポーター戦隊伴ってきた。最初にその部隊はドラッシー砦を確保しレッド川への道を開いた。フレデリック・スティール少将も、北のアーカンソー州リトルロックフォートスミスパインブラフ基地からシュリーブポート対すバンクス支援するために、14,000名の部隊動かしてくることが期待された。

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レッド川方面作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 23:00 UTC 版)

第19軍団 (北軍)」の記事における「レッド川方面作戦」の解説

1864年春、第19軍団ウィリアム・B・フランクリン軍団長とし、悲惨な結果終わったバンクスのレッド川方面作戦を開始したフランクリンマンスフィールドの戦い負傷した。この失敗目立ったため、第19軍団の内2個師団は、ウィリアム・エモリー(William H. Emory)に率いられて、ジュバル・アーリーと戦うフィリップ・シェリダン支援するために、バージニア州シェナンドー渓谷送られた(1864年のバレー方面作戦参照のこと)。これらの師団は、シェリダン作戦における大きな戦闘には全て参加し、特にオペクォンの戦いでは戦死戦傷2,000人の損害出した多くがクヴィア・グルーバー(Cuvier Grover)の師団兵士であった)。

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