ルー・ムシュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 08:09 UTC 版)
「ナンシー・ミットフォード」の記事における「ルー・ムシュー」の解説
「私はここで全く幸せです...炭坑から日の光に出てきたかのように完全に違った人格を感じます...ダイアナ・クーパーは天使のような存在です。彼女の美しさと魅力に虜になっています...私のフランスへの情熱よ!」 ナンシー・ミットフォード、フランス永住を決めた後に母に宛てた手紙 パリに移ってからの18か月間、何カ所か短期間で居を変えながら多忙な社会生活を楽しみ、その中心にあったのはイギリス大使ダフ・クーパーとその社交的な妻ダイアナ・クーパーのいる英国大使館だった。最終的にナンシーは、パレウスキーの住居に近く、パリ左岸のルー・ムシュー7号に、メイド付きで快適なアパートを見つけた。そこに落ち着くと、その後の20年間のほとんどで変わらぬ生活パターンを作り、その正確な時間表はパレウスキーの変化する時間で決められた。その社交、娯楽および仕事の時間の間にイングランドの家族や友達へ定期的な短い訪問が宛てられ、夏はベニスで過ごすのが通常だった。ナンシーの死因となる癌の原因を作ったのは、ベニス滞在中に太陽の光を浴びたからだという憶測がある。 1948年、ナンシーは『愛の追跡』の続編となる新作『寒い気候の愛』を完成させた。前作と同じ田舎家という環境で、同じ登場人物が多く登場した。作品の受け取られ方は前作よりも温かいものであり、ウォーは称賛するときに条件をつける数少ない批評家の1人だったが、表現は良いが、会話がお粗末だと思った。1950年、ナンシーはアンドレ・ルーサンの戯曲『小さな小屋』を翻訳・翻案し、8月のウェストエンド・デビューの準備をした。「タイムズ」の劇評は「話し方が口語的で、予測のつかないものであり、即座にミットフォード女史の創作だと宣言している」としていた。この劇は合計1,261回上演され、ナンシーにはロイヤルティが毎月300ポンド入った。同年「サンデー・タイムズ」が連載コラムの寄稿を求めてきたので、ナンシーはそれを4年間続けた。この執筆で忙しい時期は1951年も続き、戦後3作目となる『恩恵』が出版された。これはパリを舞台にした半自叙伝風ロマンスであり、貴族的な若いイギリス婦人が肉欲的なフランス侯爵と結婚する話だった。ハロルド・アクトンはこれをナンシーの小説でも完成度が高いものと見ており「フランスを快活に愛する気持ちが広がっている」と言っていた。この本を献呈されたウォーは何も批判していない。ウォーはこの作品が「立派で、とても楽しく、一貫性があって完全であり、これまでの作品と比べても最良のもの」と思った。 ナンシーは続いて初の真面目な伝記もの『ポンパドゥール夫人』に取り掛かった。この本が1954年3月に出版されると、批評家の一般的な見方は「驚くべき娯楽性、歴史上のものとは思えない」とされていた。歴史家のA・J・P・テイラーは、18世紀のヴェルサイユを架空の田舎家「アルコンリー」に擬えたことが、ナンシーの最近のベストセラー小説の背景に似ていると評した。ナンシーはこの比較が侮辱的だと思った。
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