リデルがハンセン病の患者を初めてみた話
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「ハンナ・リデル」の記事における「リデルがハンセン病の患者を初めてみた話」の解説
この文献は種々あり、最初は1891年12月1日リデルがCMSに送った文章である。ここには桜が満開であることは書いておらず、ハンセン病を救済したダミアン神父に相当する人が必要である、CMSでもやらないかと示唆している。 街から45分ほど歩くと何百年か前に当地に城を建てた人物の墓があります。そこに行くのには、お寺に着いてから舗装の荒い、桜並木の道をずっと歩いていきます。道すがら、左右どちらをみても、お寺や社(やしろ)、そしてその住職たちの住居が並んでいます。それから200段ほどの石段を登ると加藤清正の墓なのですが、その前に寺があります。寺の中、廟の前では常に香が焚かれて、ロウソクが灯っています。そしてそこにはさまざまな惨状を呈したハンセン病患者がいて、廟に眠る霊に清めを求めているのです。(中略)この間は、16歳くらいのひどく青ざめた少年が太鼓の前に座り、目を固く閉じ、太鼓の響きに合わせて首を激しく左右に振りながら祈りを繰り返しているのを目にしました。(中略)彼らにはダミアン神父が必要なのです。CMSには、そんな人物はいないのでしょうか。私自身には医療の経験はありませんが、医療面のアドバイスは効果的でしょうし、彼らの苦しみを多少なりとも癒すことになるのです。 リデルは生涯に亘ってこの話をしているが、内容がすこしずつ変容している。次に記載するのは、大正4年2月21日付「日本の医界」による。この文章の前には英文がある。この文章の前の明治35年12月6日の大日本婦人衛生会例会における講演がある。内容的にはこの下の文章と同じであるが、4月3日のことは明示していない。 回春病院設立の動機 此の動機は至極簡単なものであった。中には私の向かって、らい患者を看護するために,はるばると此の国へ渡って来たのかと訊ねる方もあるが、決して左様ではない。私は今より25年程前に日本に来た。来た当座は、日本にもらい患者がいることとは少しも知らなかった。しかるに2年ほど経って初めてらい患者の居ることが判った。そしてある時偶然にも、熊本市の付近に一つの寺があって、年々、沢山のらい患者が此処に巡礼にくるということを聞いた。私は幼い時から聖書を読んで、基督が世に助けのない人即ち、らい患者に特別の憐れみを垂れたというのを知っていたので、其れ聞いて深い深い興味を覚えた。そこで私は即座にその寺、即ち本妙寺を訪れたのである。 今考えてみたら、その日は神武天皇祭の日(注:4月3日)であった。それ故いつにもなく、沢山のらい患者が集まっていた。天は麗らかであった。一歩また一歩、寺に向って進むと、両側に桜の並木があり、まさに見ごろの桜花は紺青色の空に照り輝いている。辺りの光景は最も感銘的であってー今日なお脳裏を去らずー私は唯恍惚として見とれておった。何事ぞ!かくも麗しき桜樹の根元に坐して、見るも哀れなる病人が傍目も振らず、不断のお題目を唱えているではないか。歓楽の情は一変して悲哀の念となった。並木の下をくぐって、見るともなしに見ると、既に重態に陥っている病人が声を限りに救いを呼んでいる。約二百段ばかり、石段を登ると数え切らない程沢山のらい病人がいる。多くは婦人であって、幼い小児を抱いておった。段々寺に近寄ると、太鼓の音、これに調子を合わせているお題目の声が聞こえる。げに御堂は凄惨な声を張り揚げて、己がため、また愛人のため仏の加護を祈りつつある、世に最も哀れむべき人で充満されておった。 次に大正8年6月15日大阪で第72回救済事業研究会では、熊本にきてから1年半後の神武天皇祭に本妙寺を訪れたとある。内容は最も詳しい。なお熊本にきたリデルやノットの世話をしたブランドラム夫妻は1891年4月に「熊本および近傍の景観」と題しスケッチ入りの英文記事を書いているがその中に本妙寺があった。
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