リデルの貴族趣味と回春病院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 23:45 UTC 版)
「ハンナ・リデル」の記事における「リデルの貴族趣味と回春病院」の解説
リデルには極端な貴族趣味があった。黒いボンネットを冠り黒のドレスで身を飾り、犬が大好きであった。日本にくる時も船で犬を連れてきている。それで、貴族の出と飛松甚吾は書いているが、レデイ・ボイドがイギリスに遺されている文章等を調べたら父親はうだつの上がらない下士官であった。なお、リデルは自分のことに関して外の人に喋らなかった。 彼女は政治的にうまく働いた。リデルの応援団の一人本田増次郎は御殿場のハンセン病病院神山復生園を訪問し、また、日本医学の進歩に貢献した東京大学内科のベルツに会い、病院構想を練った。協力者金沢久はリデルより英語を習得、後東京高等師範学校の教授になったが、この2人と聖公会の衣笠景徳の3人で4,000坪の土地を1894年に手に入れた。また回春病院設立後であるが、細川家から3000坪の寄贈を受けている。リデルとCMSと病院の設立と経営に関しての交渉は長く続いたが、結局CMSから離れてリデルの経営ということになった。しかし、リデルは独力で募金を続けるという役割を課せられた。彼女は積極的に政治家、実業家、富裕な人々に寄付を求め、また学者と討論した。日本の皇族は彼女の仕事を認めて、寄付を行った。リデルはいつもトップと会うので、他の人とはうまくいかない場合もある。実際に仕事をした仲間は、彼女とは一緒に働きたくないという人が多い。猪飼隆明は、病院設立に関して、CMSがいろいろ反対したのだろうとしている。しかし、それでも創立させたのだから、リデルは尋常な能力の持ち主ではない。しかし、リデルには手柄を独り占めする傾向があるという。 リデルはCMSから離れて英国に帰ったあとも回春病院に関わることができた。施設の土地所有者がリデルの協力者だったからである。それでも心配して、外人の土地所有が999年認められるようになって、その手続きをしている。また、自分が死んだとき施設がどうなるかもCMSと交渉している。 リデルは大柄で六尺豊かであった。人力車をやとったが、必ず2人が必要であった。草津では4人の駕籠かきを雇っている。1928年には熊本では珍しい運転手つきの黒塗りの車を使用した。リデルの体格が余り大きいので、なくなる前に火葬できるかどうか本人が確かめたというエピソードがある。
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