リデルのハンセン病政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 23:45 UTC 版)
「ハンナ・リデル」の記事における「リデルのハンセン病政策」の解説
リデルは大正4年4月21日付「日本の医界」に次の様に述べている。 如何にしてもこれら無辜の病人を救わんとの志望が突如私の脳裏に浮かんできた。調査の結果、此の国においれはらい患者を非人と卑しみ、精神的にも肉体的にも救済法、慰安法がととのっていないことを発見したので、挺身事に当たる必要をかためたのでここに決心の臍を固めたのである。最初に本妙寺付近に一宿屋を借り入れて無資力患者の収容に充てた。土地を購い回春病院を新築したのは約一年半後のことであって、資金は皆故国の知人が喜捨してくれたものである。(中略)五、六百年前には英国にも数は多くはないがらい患者がいました。らい患者は男女に分って収容し、短期間でらい患者はいなくなりました。ハンセン病患者は偽名を使うのを許されるべきである。各県に男女別々に施設を作り、医師以外はハンセン病患者から選ぶべきである。このことは多額の費用が必要であるが、小型砲艦1隻(a single gun boat)の費用にも満たないし、毎年の費用はこの国の人一人1戦の税で十分だと思います。 日本のハンセン病患者への隔離政策は批判を浴びているが、リデルもまた隔離政策を唱えていた。しかし、医学では素人であり、医学の発展していない当時であれば、いたしかたないことである。ハンセン病の拡大を防ぐには完全な禁欲こそ唯一の方法であるという根拠により、性の要素を根絶することを正当化していた。らい研究所を作ったが動物実験で動物を犠牲にするのにも反対していた。私立施設ということで、夫婦生活をしたければ、他の施設に勝手にいきなさいという隔離政策であった。「土塀の花」という「愛生」という雑誌に連載された記録がある。回春病院で仲がよかった同志が国立療養所長島愛生園に無断でいくという話がでている。この記録は患者の死後発見された。比較的高い学歴の患者が多く、キリスト教の伝道も熱心であったが、入所している患者自身には、この隔離政策は受け入れられていた。光田健輔によるリデルの隔離政策の説明は、「熊本回春病院長リデルは立った。リデルは曰く、中世紀欧州、ことに英国のライを根絶せしめた大なる力は結婚禁止男女別居の法律的制裁である」と述べている。
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