ラテンアメリカの台頭と日本
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「日本のボクシング史」の記事における「ラテンアメリカの台頭と日本」の解説
1970年代に入ると当たり前のように年間10試合以上の世界戦が行われるようになるが、1972年初めから小林、西城、沼田が相次いで引退するとボクシング人気に陰りが見え始める。協栄ボクシングジムの会長・金平正紀は西城をキックボクシングに転向させ、類似競技との兼業を禁じた業界の内部規定違反として全日本ボクシング協会を除名された。金平は4月にモハメド・アリの試合に不明瞭な形で関与したと疑われると、6月には有志とともに別の協会を設立し、業界は分裂した。1973年3月には柴田がハワイで世界王者を下し、原田に次ぐ2人目の2階級制覇を達成。1973年9月にはジョージ・フォアマンとホセ・キング・ローマンによる日本初の世界ヘビー級タイトルマッチが行われた。 小岩のジムで元OPBF王者勝又行雄に手ほどき受けた高築正子は1976年8月、前出の金平の紹介で女子プロボクシングが解禁された米国・カリフォルニア州ロサンゼルスに単身で渡りプロライセンスを取得。9月30日、オリンピック・オーデトリアムにて女子プロボクサー第1号のひとりで後に全日本女子プロレスのリングでデビル雅美と異種格闘技戦を戦ったレディー・タイガーことマリアン・トリミアー相手にデビューするも判定負け。全米ウェルター級5位まで上り詰める活躍をし、一躍話題となる。 1978年に帰国し、女子ボクサーとして初めて日本のリングに上がり、キックボクサー相手に試合を行った。全日本女子格闘技連盟(コミッショナー:山口シヅエ)が認定する全日本女子プロボクシング王座も獲得した。33歳まで現役を続け、通算戦績11戦8勝2敗1分け。 日本ボクシングの黄金時代の5人の世界王者のうち、4人はラテンアメリカのボクサーに王座を奪われていた。1970年代にはラテンアメリカがボクシングの黄金時代を迎え、1975年末に12階級に22人いた世界王者の地域別分布はラテンアメリカが13名、アジアが5名、欧州が2名、アフリカと米国が各1名であった。この時期、ミゲル・カント、アレクシス・アルゲリョ、ウィルフレド・ゴメス、アントニオ・セルバンテスらのラテンアメリカの世界王者が訪日し、ホームで挑戦する日本人ボクサーたちを退けていった。また、日本以外でもロベルト・デュラン、カルロス・サラテらが日本人相手に世界王座を防衛している。ラテンアメリカ勢はやがて世界王座認定団体に支配的な力を持つようになり、統括団体乱立と王座の増殖を引き起こすことになる。 この間、ガッツ石松、小熊正二(後の大熊正二)、花形進らが世界王者となるが、1976年5月に輪島が王座を失うと日本は現役世界王者不在の時代を迎える。1976年10月9日にロイヤル小林が世界王者となるが、この王座は45日で失われ、小林に1日遅れて世界王者となった具志堅用高が日本最多となる13度の連続防衛を重ね、一時代を築くことになった。1977年には分裂していた協会が統一された。具志堅が5度の防衛を成功させていた頃、各階級で世界王座に挑戦した選手はことごとく退けられ、1978年8月に工藤政志が王者となるまで16連敗を記録していた。 1980年代 1980年1月に中島成雄が王者となると日本はWBA・WBC両団体のジュニアフライ級の世界王座を独占した。この年には大熊がソウルで、上原がデトロイトで、いずれもKO勝利で世界王座を奪取。この頃には再び米国がボクシング界を牽引しつつあった。
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