ヨゼフィーネ・ブルンスヴィックの発見とは? わかりやすく解説

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ヨゼフィーネ・ブルンスヴィックの発見(1957年-1999年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 17:15 UTC 版)

不滅の恋人」の記事における「ヨゼフィーネ・ブルンスヴィックの発見(1957年-1999年)」の解説

ヨーゼフ・シュミット=ゲルクはそれまで知られていなかった、ベートーヴェンヨゼフィーネ・ブルンスヴィック宛てた13の手紙と、ヨゼフィーネ書き写したものが残る1通の下書き出版した1957年)。年代1804年から1809年/1810年であるとみられ、彼女が最初の夫であるデイム伯爵死により早く未亡人となった時期である。シュミット=ゲルクはカズネルソンの発見を「扇情的である」と退けていた。ハリー・ゴルトシュミットは、「13の手紙」に先んじて発表されたカズネルソンの理論を、このドイツ人ベートーヴェン研究者がこうも受け入れたがらなかったについて、次のような説明行っている(1980年)。「実のところ、この会合結果として彼らは(中略)ある私生児のことを考慮しなければならなくなるが、これは専門家世界には冒険的過ぎてヨゼフィーネ仮説対す抵抗著しく凝り固めてしまうように思われのである。」シュミット=ゲルクは自身がまだ1809年ではなく1807年書かれたと考えていた最後の手紙と、ヨゼフィーネがシュタッケルベルク男爵1810年再婚したことをもって恋愛関係終了したという立場取っていた。 シュテファン・レイは異なる表現をしている(1957年 p.78)。「確かな結論到達できるのは否定的な側面についてのみである。ジュリエッタ・グイチャルディアマーリエ・ゼーバルトベッティーナ・フォン・アルニムも、もはや考慮対象ではない。長年にわたり有名な恋文受取人であると真剣に考えられていたテレーゼ・ブルンスヴィックでさえもである。しかしテレーゼ否定的な意味で確かな光を当てたのが全く同じ資料であり、そこに残されていたのがベートーヴェンが彼女の妹のヨゼフィーネ情熱的な愛情注いだ証拠であったのは興味深い。」 現在も変わらず標準的なドイツベートーヴェン伝記作家であるヴァルター・リーツラーは、ヨゼフィーネベートーヴェンの「唯一の恋人であったするカズネルソンの説を支持する1962年, p.46)。これは「内的な証拠」がヨゼフィーネ示していると結論したカール・ダールハウスと同様である(1991年 p.247)。 フランス人ジャンとブリジット・マッサンは、主として不滅の恋人書簡」とそれ以前1415)通の恋文との比較を基にヨゼフィーネを「不滅の恋人」であると同定した(1955年)。「『不滅の恋人』への手紙は(中略使われている語彙類似しているだけでなく、彼がただ1人愛した人物への長きにわたる忠誠強調されてもいる。」これに加えベートーヴェン作品への影響について「マッサン夫妻論じるのは(中略ベートーヴェン暮らしヨゼフィーネ存在したことが彼の作品に跡を残しているということである。(中略音楽理論観点からは、その関連明確に頷かれるのである。」 マッサン夫妻1955年)、ゴルトシュミット1980年)に続いてテレンバッハヨゼフィーネ可能性について大々的議論行った1983年1987年1988年1999年)。この際根拠となったのは主として新しく発見され資料であり、テレーゼ後年日記メモ書きのようなのである一例挙げるならば「ベートーヴェン書いた3通の手紙」に関する内容であり「それらは彼が情熱的に愛情注いだヨゼフィーネ送られたに違いない。」という。「ベートーヴェン!彼が我が家友人親友であったなんて夢のようだ - 素晴らしい人 - どうして未亡人であった妹のヨゼフィーネは彼を婿としなかったのか?ヨゼフィーネ心から友人!彼らはお互いのために生まれてきた。彼女はシュタッケルベルクより彼と一緒になった方が幸せだっただろう。母の愛決めてしまったのだ - - 彼女が自らの幸福を断念することを。」テレーゼベートーヴェンについてこうも書いている。「このような知的才能を持つことがいかに不幸なことか。同時にヨゼフィーネ不幸だった!『Le mieux est l'ennemi du bien(最善は善の敵)』 - 一緒に居られたら2人とも幸せだっただろう(おそらく)。彼が必要としたのは伴侶、それは確かである。」「私はこれほど長年わたってベートーヴェン親しく理知的交流深めることができて幸運だったヨゼフィーネ親しく - 心から友人2人互いのために生まれ、もしまだ生きていたのなら、2人一緒になっていたことだろう。」ゴルトシュミットの「ヨゼフィーネ仮説」への評価はこうである。「反例となる決定的証拠なしに、『不滅の恋人』が『唯一の恋人以外の人物ではないという正当性高まりつつある仮説手放そうとする者はもはやいないはずだ。」 メイナード・ソロモンは主にマッサン1955年1970年)、ゴルトシュミット1980年)、テレンバッハ1983年に対してヨゼフィーネを「不滅の恋人」の候補とすることに異を唱えている(1988年)。

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