ポルシェ・904の「黒いうわさ」
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「1964年日本グランプリ (4輪)」の記事における「ポルシェ・904の「黒いうわさ」」の解説
ポルシェ・904の突然の参戦はレース前から話題となり、様々な憶測を呼んだ。904は4月1日にFIAの公認を受けたばかりの最新モデルであり、日本販売価格は571万円(当時の大卒初任給は2万円ほど)。また、トヨタは今回苦戦が予想されており、GTクラスに出場させる車種を持っていなかった。このため、トヨタがプリンスの勝利(=宣伝効果)を妨害しようと密かに904を手配し、式場に個人名義で出場させたのではないかという「黒いうわさ」が流布した。日産チームの田原源一郎いわく、「まだ生産台数も百台そこそこという最新型車が、こんなに早く日本にくるわけがないし、また個人でこれほど多額の費用もだしきれないはず。トヨタの仕組んだ大芝居です」。プリンス陣営は噂を本気で受け止めており、予選で904がクラッシュするとピットで肩を組んで大喜びし、「ざまぁみろ」と言う者もいた。また、決勝レースに間に合ったのは「トヨタの社員が修理に手を貸したから」ともいわれた。 この「トヨタ画策説」は日本のモータースポーツ史やヒストリックカー関連の文献でたびたび取り上げられている。自動車評論家の見解は「いずれも根も葉もない噂に過ぎない」(小林彰太郎)、「トヨタ自販が援助して急遽取り寄せた」(桂木洋二)、「トヨタが空冷エンジン研究用に購入したテスト車を式場が借り受けた」(大久保力)と様々である。 式場は後年のインタビューで「話としては面白いですけど、全然そんなことはなかったんですよ」と語り、自身の購入経緯を説明している。 トヨタとは第1回大会の時から、トヨタが出場する予定のないGTやスポーツカーレースには、トヨタ以外の車で個人エントリーすると約束していた。式場はワークス専業レーサーではなく、本職は雑誌『Five 6 Seven』(わせだ書房)の編集者だった。 最新型の904を入手できたのは、前年の日本GPに招待出場したポルシェワークスのフシュケ・フォン・ハンシュタイン監督のおかげだった。式場は友人と日本ポルシェクラブを設立しており、ハンシュタインが帰国する際、来年の日本GPにポルシェで出場したいので、ポルシェ356B・2000GS(カレラ2)のような勝てるクルマを中古でも構わないのでお世話願えないでしょうか、と相談した。その後西ドイツと手紙や電報でやり取りする間に904がリリースされ、ハンシュタインがアメリカ輸出分のうち1台を都合してくれることになった。最後の電報には「ヨーロッパではペダル位置調節用のピアノ線が切れる事故が続出している」との注意書きと代用品の指示があった。 571万円という価格については、ノーマルの356が250万円超なので、2台分と考えれば破格に安いと思った。費用の半分は父親(式場病院専務理事)に出してもらい、残りはトヨタとの契約金とアルバイト収入で賄った。式場はジャズシンガー・ギタリストとしてかなりの額を稼いでおり、成城大学の同級生ミッキー・カーチスと共演したこともある。空輸についてはパンアメリカン航空がスポンサーになってくれた。 一方、当時のトヨタ製品企画室工長(チーフメカニック)は「第2回日本グランプリからサーキットに行くようになりました。このときは式場壮吉さんの助っ人でした。大切なポルシェ904GTSを壊されないように、コースに陣取って監視していました」との発言を残している。 904の修理にガレージを提供した藤井正行は、ポルシェ日本代理店(当時)の三和自動車関係者と一緒に作業したと証言し、「一部の週刊誌などで報道された様な、この904の修理に某国産車メーカーが全力をあげて協力したなどということはデマゴギズム以外の何物でもないことを、はっきりと申し上げておきたい」と述べている。 安藤純一(マシンコンストラクターブーメラン代表)の父親(安藤実)はトヨタの経理を担当していた(最後は取締役経理部長)。安藤は「親父はレースに関わるお金の調達なども行っていたらしいんです。人づてに聞いた話なので詳しくは分かりませんが、例の式場壮吉さんのポルシェ904の資金調達にも関係していたようですね」と語っている。
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