ポルシェエンジン時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 15:04 UTC 版)
「クラージュ・コンペティション」の記事における「ポルシェエンジン時代」の解説
1985年、イブ・クラージュはポルシェと契約を結び、フォード・コスワースからエンジンを変更した。クラージュはポルシェのターボチャージャー付水平対向6気筒エンジンにより良くフィットする、クーガーC12をデビューさせた。チームは、1985年に20位、1986年に18位だったため、この組み合わせは成功だった。 そして1987年のル・マンは、ファクトリーチームのポルシェ・962Cと自チームが参戦した962Cに次ぐ、総合3位でフィニッシュした。同じ年に、クラージュは世界スポーツカー選手権にスポット参戦し、クーガーC20とポルシェ962Cで総合8位を獲得した。この成功に、クラージュのシャーシとチームがル・マンで成功することができると信じ、イブ・クラージュはチームの運営に集中するために正式にドライバーを辞めた。 残念ながら1988年は、チームはその成功を維持することができず、ル・マンでのエントリー3台いずれも完走できず、世界スポーツカー選手権では1回のポイントを獲得だった。しかしチームは1989年のル・マンで総合14位でC2クラス優勝(ドライバーの1人は粕谷俊二)、世界スポーツカー選手権で総合11位になった。翌年、クラージュはC1クラスに戻り、ル・マンで総合7位になり、1991年には11位になった。 スポーツカーレースのルール変更により、クラージュは1991年にルマンのC2クラス(旧ルールに準拠した車)に、1992年のル・マンはC3(ポルシェエンジン搭載車のクラス)になった。しかし、C3クラスのクラージュ・C28LMがクラス優勝を果たし、総合6位でフィニッシュした。この車は、後年クラージュと関係を築くポルシェのファクトリードライバー、アンリ・ペスカロロがドライブした。 1993年、世界スポーツカー選手権の終焉とともに、クラージュは再びC2クラスに戻り、ル・マンで10位と11位のフィニッシュ(クラス5位と6位)。1994年にLMP1クラスで総合7位フィニッシュを果した。 1995年のル・マンでは、ドライバーのボブ・ウォレク 、 エリック・エラリー 、 マリオ・アンドレッティが#13 クラージュ・C34で参戦。結果、チームは総合2位で、マクラーレン・F1 GTRに1周差だった。1996年のルマンでは、クラージュ・C36は総合7位と13位で、ルマンプロトタイプ(LMP1)クラスで2位と3位だった。2チームのうちの1つは、実質アンリ・ペスカロロによって運営されていた。ペスカロロは、クラージュに関連した独自のチームの結成を始めていた。1997年のル・マンで、クラージュ・C41、C36が総合4位、7位、16位だった。しかし、1998年のルマンでは、クラージュとポルシェのパートナーシップは10年以上であり、クラージュが使用していたエンジンの設計も古かった。結果ポルシェエンジンでのクラージュの最後のレースとなったが、ポルシェ、日産、トヨタのLMGT1クラスのペースについていけず、総合15位と16位でフィニッシュした。 アンリ・ペスカロロは、1999年のルマンでは、新しく自身の設立したチームで、ポルシェエンジンのクラージュ・C50で、総合9位フィニッシュを達成した。
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