ポケットマネー作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:23 UTC 版)
「ラインバッカー作戦」の記事における「ポケットマネー作戦」の解説
4月24日、南ベトナム軍のクアンチ省での防衛戦は崩壊し始めていた。南ベトナム軍はクアンチ市を放棄し南部に壊走していった。市内に北ベトナム軍が入り、ちょうど同日にキッシンジャー補佐官とレ・ドゥク・トの会談がおこなわれている。北ベトナム軍の攻勢は15個師団、戦車600両を用いて三つの戦線で同時進撃を行う一大軍事作戦となっていた。北ベトナムは南ベトナムの軍事施設の4分の3を奪取して、支配地域を拡大し続けた。アメリカ統合参謀本部は北爆が中止された1968年策定の危機管理計画を更新し北爆の再開を大統領に進言し、5月8日に承認された。ニクソンは就任直後に危機管理計画の更新準備を命じており、これはうまくいけばベトナム戦争の終結を早められると期待されていた。案として計画されたダックフック作戦は北ベトナム自体への進撃や主要港湾への機雷敷設の提案を含んでいた。この計画は過激すぎるとして棚上げされていたが完全に忘れられたわけではなかった。海軍も同様に機雷散布のような任務などを組み込む更新をおこなっていた。5月5日、大統領は統合参謀本部にダックフック作戦の機雷空中散布作戦の部分を三日以内に実行準備をおこなうよう指示した。これがポケットマネー作戦である。 現地時間の5月8日09:00時、空母コーラルシーから発進した海軍のA-7 コルセアII艦上攻撃機およびA-6 イントルーダー艦上攻撃機がハイフォン湾に出現し1,000ポンド機雷であるMk52機雷およびMk55機雷の合計34発を海面に投下した。彼らはミサイル巡洋艦シカゴ、ロングビーチや護衛のF-4戦闘機によってミグ戦闘機による迎撃からまもられていた。攻撃のタイミングを大統領の公開演説とあわせたのは明らかにアメリカ国民に対し「殺戮をとめる方法は無法者の北ベトナムから武器を取り上げることだけだ」と説得するためだった。港から安全に離脱する猶予を残すために機雷は投下から5日後に起動された。その後の三日間、空母艦載機が合計11,000発以上の機雷を北ベトナムの二次的な湾口にも敷設し海運を完全に麻痺させた。 ポケットマネー作戦の前から作戦中、ニクソン大統領はソ連が首脳会談を中止すると思っていたが、キッシンジャー補佐官は中国を利することになるからソ連は首脳会談を中止しないと考えていた。機雷敷設の宣言を大統領が出す前にキッシンジャー補佐官はソ連大使アナトリー・ドブルイニンに作戦の概要を手紙で送ったが、ニクソン大統領の会談を進める熱意も明らかにしていた。翌日、ニクソン大統領はソ連対外貿易人民委員のニコライ・パトリチェフとホワイトハウスで握手した。北ベトナムはニクソン大統領の中国訪問から3か月後に行われたこの作戦を中国の了解を得たものとして自国への中国の裏切りと受け止めていた。北京とモスクワはアメリカ軍の軍事行動を公然と非難はしたものの、アメリカとの関係改善を壊すことは避けハノイからの支援要請を冷たくあしらった(ただし中国は、中国人民解放軍海軍の掃海艇12隻を含む対機雷戦部隊を派遣し、27,700海里に及ぶ航路啓開を実施した)。ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官の外交は成功を収め、アメリカは望みどおり行動できるようになった。
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