ボヘミアガラスの特徴の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/19 13:24 UTC 版)
「ボヘミアガラス」の記事における「ボヘミアガラスの特徴の確立」の解説
14世紀末から15世紀初頭のボヘミアでは、主にビザンチングラスの様式を継承したグラスが製造されていた。15世紀半ばにビザンツ帝国(東ローマ帝国)が滅亡、この頃からヴェネツィアのムラーノ島から抜け出してボヘミアに移住するガラス職人が増え始める。16世紀には約90の工房がボヘミアに存在し、ビザンツ、ヴェネツィア、ドイツといった外国の様式を模したグラスが作られていた。17世紀のバロック時代まではヴェネツィアがヨーロッパのガラス容器の生産の中心地であり、ボヘミアのガラス製品もヴェネツィアの影響を受けていた。 プラハを帝国の首都とした神聖ローマ皇帝ルドルフ2世は学芸の保護者として知られ、特にガラス工芸を熱心に保護した。17世紀前半にプラハの宝石カッティング職人カスパル・レーマン(Caspar Lehmann)によって、銅やブロンズ製の回転砥石で宝石をカットするエングレーヴィング技術のガラス細工への応用が考案される。従来のヴェネツィア式のエナメルを使用した絵柄の描画に代わってガラスに直接絵柄が掘り込まれるようになり(グラヴィール彫刻の始まり)、レーマンはルドルフ2世からグラヴィールの独占権を認められた。グラヴィール彫刻はボヘミアとシレジアに普及し、レーマンの弟子ゲオルグ・シュヴァンハルトによってニュルンベルクに伝えられ、ドイツ、オーストリアにも技術が広まった。それ以降、従来の加工法を結合させ、装飾的なバロック様式が施されたガラス細工がヨーロッパの市場で知られるようになった。プラハの宮廷で流行したボヘミアガラスはハプスブルク家の愛用品となり、ヨーロッパ各国の宮廷で珍重された。レーマンら初期のガラス職人の作品は、ガラスを面ごと削ぎ取ったとも思える大胆なカットと、緻密な掘り込みが共存しており、彼らが培った伝統は後世の最高級品の中にも根付いている。 1660年代から1670年代にかけての期間には、ボヘミアでクリスタッロ(ヴェネツィアで開発された無色の薄いソーダガラス)よりもグラヴィール彫刻に適した、輝度の高い硬質のカリガラスが開発された。ガラスの原料の一つとなるソーダ灰について、ボヘミアはジェノヴァからの輸入に依存しており、しばしば供給に不都合をきたした。ソーダ灰の代用品として、シレジアの山地で伐採された木材から作った石灰(ライム)が使われるようになる。1680年代にはミヒャエル・ミューラーによって、木灰を利用した石灰カリガラスが発明される。しかし、ミューラーのガラスは石灰の量の調節が難しいために均等な品質の維持に困難をきたし、ガラスの品質が安定するようになるのは18世紀に入ってからである。また、カットとグラヴィールの発展と共に、窯、材料の調合の割合、除冷法にも改良が加えられていった。18世紀末には乳白ガラスが開発され、ドイツ製の磁器を模倣した作品が多く作られた。 こうしてカットとグラヴィールというボヘミアガラスの特徴と、ヨーロッパにおけるボヘミアのガラス産業の高い地位が確立し、18世紀にはヴェネツィアのガラス工芸に影響を与えるようになった。18世紀のボヘミアにはグラヴィール彫刻とカットを手掛ける工房が多く稼働していたが、それでも各国からの注文に生産が追い付かず、シレジア地方やドイツのベルリンから職人が招集された。ボヘミアガラスの流行には体系された流通網も重要な役割を果たし、ボヘミアガラスはヨーロッパ、さらにはアメリカに輸出された。ボヘミアガラスの販売店はヨーロッパだけでなく、イズミル、カイロ、ベイルート、ニューヨークなどにも置かれていた。
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