ホロンバイル事件
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1932年2月28日、満州国が成立。黒龍江省市政警備処長となったが、親ソ路線を維持し密使を送る一方で満州国への帰属にはあいまいな態度を示した事、部下に支払うべき給料の着服があったとされる事から、8月に解任される。ホロンバイル統治は貴福、凌陞親子に引き継がれた。また同時に哈満護路副司令の張殿九が解任されたことを不服とし、9月27日、『東北民衆救国軍』を名のり、満州里で挙兵。領事をはじめ、満州里特務機関長小原重孝大尉、宇野国境警察署長や民間人の在留邦人・朝鮮人・満州国人数百名を人質とし、10月1日、海拉爾に進攻。同日、頭道街花園広場にてホロンバイル独立を宣言、日本政府に対し正式に宣戦を布告した。10月末から11月にかけて北満鉄道西部方面一帯を占領した。当初、日本政府や関東軍は戦闘を避け、和平工作で解決する方針をとった。 7日、駐ソ連代理大使天羽英二と陸相荒木貞夫はソ連政府外務人民委員会次長レフ・カラハンと駐日大使オレグ・トロヤノスキー(英語版)に対し、満州里方面への軍隊の輸送許可を求め、協力の対価として不可侵条約の交渉に入る事を示唆した。ソ連側はすぐに動き、駐満州里領事スミルノフを介した交渉の結果、婦女子120名が29日に解放され、荒木が中立地帯として使用許可を求めたマチエフスカヤに送られた。11月5日、小松原道太郎大佐を中心に救出委員会が結成され、マチエフスカヤに向かったが、蘇炳文は日本との直接交渉を拒絶した。カラハンは、存在意義を失った救出委員会がソ連国内に留まる事に反発し、撤退を求めたが、天羽は長期戦を予想し、ハルビンないしチチハル~マチエフスカヤ間の航路の開設と航空機2機の用意という強引な要求を行った。ソ連は、蘇が再度拒絶した場合、救出委員会の撤退を求めた。 11月20日、蘇は扎蘭屯で馬占山と会食。馬は「退却を提案する。東三省全ての兵を以てしても日本軍は防げない。それでも戦うならば、余の兵2,000人を呈す」と述べた。蘇は、「分かった」と言ったのみで多くを語らなかったという。21日、非戦闘員男子および婦女子24名が解放された。 11月29日、関東軍は武力方針に転換。歩兵第25連隊第2大隊、鉄道第一連隊、飛行第12大隊などの混成師団や満州国軍興安南警備軍を派遣。救国軍側はこれらの猛攻を受けて次第に戦力を失い、12月1日に扎蘭屯が占領される。3日には、ハイラルの蘇邸宅が空爆された。4日、蘇は部下を連れてソ連領事館を訪れ、ソ連の不干渉と中立を承知の上で援助を申し出たが拒絶された。蘇は、自身の弱さを承知の上で満州国の欺瞞性を世界に示すため決起したことを説明し、自ら武装解除することを条件にソ連への退却と中国への帰還を求めたところ、ソ連側はこれを認めた。12月6日午後1時30分、ついに本拠地の満洲里が陥落。蘇はソ連のトムスクへと亡命し、監禁されていた領事官員や朝鮮人、満州国人約124名は全員救出された。 8日、日本政府は天羽を通じてカラハンに蘇の身柄の引き渡しを要求したが、カラハンは、蘇を刑事犯と見なせば日本政府が中立場所としてソ連領の提供を認めたのは到底考え得ない事、蘇は人質解放に応じており、武装解除を行った以上、蘇の引渡し並に監禁を要請することは不当である事、ソ連は白系ロシア人の引き渡しを満州国に要求した事はなかった事、を理由に拒絶した。同日、外務人民委員部は蘇一人を出国させ、部下は労働に従事させるとの決定を下した。天羽は翌9日に抗議したが、カラハンは内政干渉だとしてこれに応じなかった。しかし11日、一転して蘇とその部下をトムスクに抑留する決定を下したことがソ連大使広田弘毅に伝えられた。
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