プロテスタントとの対話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:01 UTC 版)
「パウルス3世 (ローマ教皇)」の記事における「プロテスタントとの対話」の解説
教皇は手始めに14歳と16歳でしかなかった2人の孫アレッサンドロ・ファルネーゼ(息子ピエロ・ロドヴィコの長男)とグイド・アスカニオ・スフォルツァ(英語版)(娘コスタンツァ(英語版)の息子)を枢機卿に任命した。教皇庁がネポティズムの害悪から逃れられない時代であった。しかし、続けざまにガスパロ・コンタリーニ(英語版)やレジナルド・ポール、ジャコポ・サドレト、ジョバンニ・カラファ(後の教皇パウルス4世)といった優秀な聖職者達を枢機卿に任命してもいる。 パウルス3世は当時、緊急課題であるという認識が高まっていた教会改革に対して非常に積極的であった。1536年6月2日、教皇はイタリアのマントヴァに公会議を召集する旨を発表し、対話による教会分裂の回避を目指してプロテスタントの代表者達にも参加を呼びかけたが、ドイツのプロテスタント達がイタリアでの会議には参加しないと表明した為、マントヴァ侯の尽力も空しく会議の開会は延期、やがて中止となった。 1536年、パウルス3世は9人の優れた高位聖職者達を招集して委員会をつくり、教会改革の現状分析と課題について検討させた。1537年に委員会は有名な報告書「コンチリウム・デ・エメンデンダ・エクレジア」をまとめ、教皇に提出した。報告書は教皇庁における不正や汚職などの問題点や教会の抱える多くの課題を指摘していた。この報告書はローマのみならず、ドイツにまで持ち込まれた。 1538年、マルティン・ルターはこの報告書に序文をつけてドイツで出版したが、そこには枢機卿達が教皇庁のつもりつもった汚れを箒でなく、自分のシッポで掃除しようとしている風刺画が書かれていた。しかし教皇自身は改革に対して真摯な姿勢で取り組んでおり、公会議開催こそが改革の原動力になると信じて疑わなかった。その為に公会議の実現に向けて力を尽くした。しかし、これまでの公会議主義運動がほとんど実りをもたらさなかった事とに加え、先に委員会が提出した報告書の勧告も実行には至っていない事が不安材料であった。一方で、同年にはイングランド国教会をたてたイングランド王ヘンリー8世を破門した。 教皇自身が政治問題を引き起こす事もあった。例えば1540年には自分の孫にあたるオッターヴィオ・ファルネーゼ(アレッサンドロの弟)をカメリーノ侯にしようと、ウルビーノ大公からカメリーノ侯の地位を剥奪している。また、過酷な税を課した事で教皇の支配下にある都市との間で戦争が勃発した事もあった。例えばペルージャは税の支払いを拒否して教皇の軍隊に包囲され、降伏。抵抗したコロンナ市民も制圧され、アスカニオも1541年に屈服させられた。こうして後顧の憂いを断った教皇はいよいよプロテスタント問題に取り組む事になる。 1537年に、教皇はイニゴという中年のバスク人に率いられた小さなグループを謁見し、後に彼らを修道会として認可する事になった。この時教皇も含め誰も、後にこのグループがカトリック教会と世界史に名を残す程の大きな業績を残す事を予見できなかった。彼らこそがイグナチオ・デ・ロヨラに率いられたイエズス会である。 その頃、神聖ローマ皇帝カール5世はドイツのプロテスタント問題を解決すべく、自らのプランにローマが協力する事を求めてきた。教皇はこれに答えてハゲノー(1540年)とヴォルムス(1541年)での帝国議会に特使ジョヴァンニ・モローネ枢機卿を派遣。さらにレーゲンスブルクの宗教会議にはコンタリーニ枢機卿を代理として派遣した。当時、義認の問題が論争の中心であった為、コンタリーニは「信仰によってのみ義化される」というプロテスタント側の主張と人間の協働も評価するカトリックの伝統的な義認観を融和させるべく「二重義化説」を唱えた。この説はいわば苦肉の策の折衷案で非常に妥協的なものであった為、カトリック教会からもマルティン・ルターらプロテスタントからも受け入れられなかった。 ここにいたってプロテスタント側との対話による和解は困難な事が誰の目にも明らかとなった。残る方法は実力行使によるプロテスタントの打倒であり、教皇がローマに新しい異端審問所を設置したようにプロテスタントに対して断固たる態度をとるという見方が強くなった。しかし、カール5世はあくまで公会議による解決を主張した。カール5世の熱意はトリエント公会議の実現によって実を結んだ。公会議はさらに開催へ向けて紆余曲折があったが、1545年のパウルス3世の回勅『レターレ・エルサレム』によって正式に召集された。
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