ビーチー島発掘と死体の掘り出し(1984年と1986年)
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「フランクリン遠征」の記事における「ビーチー島発掘と死体の掘り出し(1984年と1986年)」の解説
ビーティは1982年にエドモントンに戻ると、1981年に遠征で得た標本の鉛濃度が高かったことを知り、その原因を必死に探った。可能性としてフランクリン遠征隊の缶詰食に使われた鉛のハンダ、内側に鉛製の箔が張られた食料容器、食品着色剤、タバコ製品、ピューター食器、鉛の芯をいれた蝋燭が挙げられた。鉛中毒に壊血病の影響が重なり、隊員にとって致命的なものになった可能性をビーティは疑い始めた。しかし、骨中の鉛濃度は航海期間だけでなく生涯にわたっての摂取量を反映するものであるため、この仮説を検証するためには、残存する柔組織を骨の対照標本として法医学的に分析するしかなかった。ビーティはビーチー島に埋葬されている隊員の墓を調査することに決めた。 ビーティーのチームは法的な許可を得て、1984年8月にビーチー島を訪れ、そこに埋葬されている3人の隊員の検死を行おうとした。検死は、最初に死んだ指導機関員のジョン・トーリントンから始められた。チームはトーリントンの検死を完了し、ジョン・ハートネルの遺体の掘り出しと簡単な調査を行なったが、時間に追われ天候悪化の懸念もあったため、組織と骨の標本を持ってエドモントンに戻った。トーリントンの骨と毛髪の微量元素分析によれば、「鉛中毒により精神的、肉体的に深刻な問題を被った可能性がある」ことを示していた。検死によればトーリントンの直接の死因は肺炎と推定されたが、鉛中毒は寄与因子として挙げられた。 研究チームは遠征の間に、墓から約1 km 北の地点を訪れ、フランクリン隊が捨てていった数多くの食品缶詰の破片を調べた。ビーティは缶の接合部が鉛で雑にはんだ付けされていることに気付き、食品に鉛が直接触れたと推測した。1984年遠征の所見と、ツンドラの永久凍土層によって保存状態の良いトーリントンの138年前の遺体の写真を公開すると、マスコミが幅広く取り上げ、失踪したフランクリン遠征隊に新たな関心を呼び起こした。 最近の研究は、鉛を摂取させた可能性のある別の原因として、缶詰ではなく船の真水供給装置を示唆している。K・T・H・ファーラーは、「缶詰食で1日3.3 mg の鉛を8か月以上にわたって摂取したとしても、成人に鉛中毒の症状が現れる80 μg/dL の水準まで血中鉛濃度を上げるのは不可能であり、数ヶ月はもちろん3年の期間があったとしても、食品から摂取する鉛で成人の骨中鉛濃度がすべて説明できるという説は支持しがたい」と主張した。さらに、缶詰食は当時のイギリス海軍で広く利用されており、他の場所では缶詰食を利用しても鉛中毒を著しく増やすようなことはなかった。しかし、この遠征隊のみに特有だったのは、補助推進力のために鉄道用の蒸気機関を船に装備したことであり、これは蒸気を得るために推定1トン/時の真水を必要とした。このために船には特有の水の蒸留装置が備えられ、当時使われた材料を考えれば、非常に高濃度の鉛を含有した水を大量に生産した可能性が強い。ウィリアム・バターズビーは、隊員の死体に見られた高濃度の鉛の摂取源として、缶詰食よりもこの蒸留装置がかなり可能性が高いと論じている。 墓のさらなる調査が1986年に行われた。撮影班がその様子を記録しており、1988年にはドキュメンタリー番組「ノバ」で「氷の中に埋められて(Buried in Ice)」という番組名で放映された。困難な現場の条件下で、ミネソタ大学の放射線科の医師デレク・ノットマンと、放射線技師のラリー・アンダーソンが、検死前に隊員のX線写真を大量に撮影した。極地用被服の専門家バーバラ・シュウィーガーと病理学者のロジャー・エイミーが調査を手伝った。 ビーティとそのチームは、ハートネルの遺体を掘りだそうとした者が以前にもいたことに気付いた。誰かが掘りだそうとした際につるはしが棺桶の木蓋を痛めており、棺の銘板が無くなっていた。後のエドモントンでの研究により、フランクリン救援隊の1つの指揮者エドワード・ベルチャー卿が1852年10月にハートネルの遺骸の掘り出しを命じたが、永久凍土のために途中で止めさせていた。その1か月後、別の救援隊の指揮者エドワード・オーガスタス・イングルフィールドが、掘り出しに成功し、棺の銘板を除去していたことがわかった。 ハートネルの墓とは異なり、兵卒ウィリアム・ブレインの墓はほとんど無傷だった。その遺骸を取り出すと、埋葬があわただしく行われたことを示す兆候が見られた。腕、体、頭は棺の中に注意深く収められておらず、下着の一枚は前後逆に着せられていた。棺はブレインには小さすぎたようで、鼻を押さえつけて蓋が閉められていた。彼の名前と個人的な情報を刻印した大きな銅板が棺の蓋に付けられていた。
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