ヒットの背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/27 05:07 UTC 版)
終戦当時、日本の国民のうち、外地と呼ばれる地域にいた民間人と軍人は約660万人と言われている。 戦後の混乱もあって、外地の日本人との連絡は難しく、特に満州、樺太、千島列島にいた兵士や民間人は行方が分からなかった。 彼らがシベリアに抑留されていると外務省が知ったのは、翌昭和21年のAP通信であった。 引揚者らは日本への航路がある港に殺到したため、引揚げ船・復員船は常に超満員だった。 運良く乗船できても、暗く狭い船倉は衛生状態も悪く、快適ではなかったらしい。 本土に上陸しても、列車内は買い出し等で大きな荷物を持った人でごった返し、列車のわきにぶら下がったり、屋根に座ったりする人が多かった。列車とすれ違う時や、SLの煙が充満したトンネル内では大変な思いであった(肥薩線列車退行事故)。 終戦直後には、潜水艦に船が撃沈される等、まさに命がけの引揚げであった。 また、引揚者を受け入れる内地は、戦火で焼けた都市部の住宅不足に加え、急激なインフレーション、物資不足、深刻な食糧難にみまわれていた。 住宅不足 3月10日の東京大空襲から始まる全国各都市を狙った空襲で、全国の家屋の15%が失われたと言われる。その他にも建物疎開で減っていたり、引揚者の住む住居が不足したりしていた。人々はバラックを建てたり、親戚の家に間借りして文字通り肩身の狭い思いをしていた。 インフレ 昭和22年7月時点で、一般物価は戦前(昭和9 - 11年の平均)の65倍、米価は32倍と政府が発表。また、昭和21年8月の厚生省の調査結果では標準家庭1ヵ月の収入504円40銭に対し、支出が844円80銭であった。 物資不足 空襲による破壊の他、外地からの供給停止、物流がうまく機能できなかった事も影響した。前年には東南海地震、三河地震という二つの大地震も発生していた。 食糧難 1945年(昭和20年)は農村の人手不足に加え、とても寒い冬で、米の収穫量が前年の68.8%と大凶作であった(収穫期には枕崎台風や大雨が被害を大きくしている)。 この時代は一日一日を生きる事に必死であり、父親が無事に帰る事が希望だった家庭も少なくなかった。 反響が大きかった事をふまえると、上記のような世相の中、「里の秋」は年の瀬の人々の心を慰めたと考えられる。
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