ヒットまでの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/13 09:17 UTC 版)
「誰かが誰かを愛してる」の記事における「ヒットまでの経緯」の解説
1964年までに、フランク・シナトラによるものを含む数件のレコーディングがなされていたが、ヒットには至っていなかった。1964年、共作者のひとりであるレインが、ディーン・マーティンのアルバム『Dream with Dean』のセッションにピアニストとして参加した際、スタジオが使用できる残り時間が1時間あまりという時点でアルバムには1曲分足りないという状態になり、レインはマーティンにこの曲を歌ってみることを提案した。ディーンはこれに同意し、ピアノとギター、ドラム、ベースというスモール・コンボの編成で、比較的静かな、レイドバックしたジャズ・バージョンの演奏が行なわれた。マーティンはこの曲を、20年ほど前の1948年にボブ・ホープのラジオ番組で披露したことがあった。 その直後、マーティンは次作のアルバムに入れるべく、オーケストラとコーラスを付けてこの曲を再レコーディングした。マーティンが所属していたリプリーズ・レコードは、このバージョンがヒットすると見込んで、アルバムのタイトルを『Everybody Loves Somebody』として、この曲が目立つようにした。 当時のマーティンは、依然としてメジャーな歌手であったが、1958年以降はTop 40 入りするヒット曲に恵まれていなかった。さらに、ブリティッシュ・インヴェイジョンがアメリカ合衆国のチャートを席巻するなか、中年のイタリア系クルーナーが、多くのティーンエージャーに受けるとは思われていなかった。しかし、この曲はBillboard Hot 100 とEasy Listening のチャートで首位に立ち、後者では8週間にわたって首位にとどまった。それまでマーティンの代表曲は「ザッツ・アモーレ (That's Amore)」であったが、ヒットによってその座はこの歌に代わり、マーティンは1965年から1974年まで、自身のバラエティ番組のテーマ曲としてこれを歌った。この曲は、マーティンと強く結びつけられたため、これ以降のカバー・バージョンは、ヒットしたマーティンのバージョンと何かと比較されることになった。 マーティンはロックンロールを嫌っていたため、西側諸国の数多くのティーンエージャーたちと同じようにビートルズを信奉していた当時14歳の息子ディーン・ポール・マーティン (Dean Paul Martin) とは、家庭内でしばしば対立していた。マーティンは息子に、「お前のお気に入りの連中をチャートから追い出してやる (I'm gonna' knock your pallies off the charts)」と言い、1964年8月15日には「誰かが誰かを愛してる」が、ビートルズをビルボード・チャートの首位から引き摺り下ろしたのであった。 マーティンのバージョンは、同じくマーティンによる「ジェントル・オン・マイ・マインド」とともに、1960年代スパイ映画のパロディであるフランス映画『OSS 117 リオデジャネイロ応答なし (en:OSS 117: Lost in Rio)』に用いられた。
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