バーニー・エクレストン(TWP)の参入 (1992年)
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「ロードレース世界選手権の沿革」の記事における「バーニー・エクレストン(TWP)の参入 (1992年)」の解説
1992年 - バーニー・エクレストン(TWP社長)の参入 1992年にはFIMは今まで保有していたロードレース世界選手権(WGP)の権利をドルナ(DORNA)とバーニー・エクレストン(TWP社長 - Two Wheel Promotions)に分割し、同時にIRTAはすべてのチームの商業的なことを把握することになった。ドルナは5年間のテレビ放映権を獲得した。これによりWGPの実際の権限はFIMから離れ、エクレストン(TWP)が掌握することになった。エクレストンはWGPを4輪のF1のような大きな事業すべくWGPに参入し、レースの運営手法としてF1方式を導入する。これは旧態依然としたFIMの体質である金銭的なことを重視しないアマチュア的な運営方式から、ライダーやチームなどの活躍に相応わしい報酬を支払う運営方式への転換であった。エクレストンは次のように語っている。「FIMが、ライダーの要求に気づくのが遅すぎた」(バーニー・エクレストン) しかし、エクレストンはWGPファンには評判が悪く、ドイツGP(ホッケンハイム)とオランダGP/ダッチTT(アッセン)では、観客席に「エクレストン・ゴー・ホーム」(意訳「エクレストン、帰れ!」)と書かれた横断幕が出たほどである。また、ドイツGPの観客数は例年の12万人超から7万8千人にまで減少し、グランド席下部のコース側は空席が目立つような状態であった。その原因の一つが入場料の高騰である。WGPのレース主催者はエクレストン(TWP)に最低100万ドルも支払わなければならず、このことが入場料高騰の原因と考えられる。 当初FIMはエクレストン(TWP)に抵抗していたが、エクレストン(TWP)とIRTAがFIMに強く迫り始める。1990年にはライダーとチームの大半がIRTAと契約を結び、FIMとは別の世界選手権を開催する可能性が既に生じていた。 エクレストン(TWP)がWGPの運営を行うようになってからはFIM時代よりも情報公開度が下がった。ライダーやジャーナリストには把握できないこと、確かめようのないことが増えた。それはWGPのレースを私企業TWP(エクレストン)が営利目的の興業として行うようになったためと推察される。 このように、エクレストン(TWP)の参入によって負の面も出たが、良い面もあった。パドックを含め、サーキットの環境改善ついては以前からライダーやジャーナリストたちがレース主催者に要求しており、その間に多くの事故やライダーの死という多大な犠牲を払ってきた。レースをボイコットするなどの抗議も行って、長い年月をかけて少しずつサーキットの環境が改善されていったのだが、エクレストン(TWP)の参入によって改善速度が速まったのである。また、IRTAはエクレストン(TWP)と契約し、エクレストン(TWP)は各WGPのレースごとにIRTAに100万ドルを支払う。IRTAはその100万ドルを500ccクラスと250ccクラス、125ccクラスの各チームに分配し、各チームはこの分配金とスポンサーからの契約金でレース活動を行う。レース主催者との契約方式もF1方式となり、各レース主催者は各チームと契約を結んでレースを開催するが、この契約にはライダーは関わらず、ライダーはチームと契約する。 ライダーのWGP出場資格も様変りした。1991年までのFIM主導時代は、昨シーズンのランキング20位以内のライダーと2年前のシーズンのランキング5位までのライダーが優先され、その次がヨーロッパ選手権のランキング6位までのライダー、日本の場合は全日本ロードレース選手権のチャンピオン、そしてその次がWGP開催国のライセンスを持つワイルドカードライダーである。しかし、1992年からは、各チームと契約するライダーならばどのようなライダーでもレギュラーライダーとしてWGPに参戦できるようになった。WGPに出場するためのライセンスは必要だが、昨シーズン以前の成績などには左右されなくなった。レースを戦っていく上でのチームの実力やライダーの実力よりも、チームの資金力(チームにつくスポンサー)やライダーの資金力(ライダー個人につくスポンサー)が重要になった。 1993年 - ケビン・シュワンツ 500ccクラスタイトル獲得、原田哲也 250ccクラスタイトル獲得、バーニー・エクレストンがWGPの商業的権利をドルナに売却 ケビン・シュワンツ(スズキRGV500)が500ccクラスの世界チャンピオンになる。250ccクラスでは原田哲也(ヤマハTZ250M)が世界チャンピオンになり、片山敬済(1977年350ccクラス世界チャンピオン)以来、16年ぶりの日本人世界チャンピオンの誕生である。詳細は「原田哲也#1993年」および「原田哲也#1993年最終戦・FIM GP」を参照 バーニー・エクレストン(TWP)がロードレース世界選手権(WGP)の商業的権利をドルナに売却した。 1994年 - ミック・ドゥーハン 500ccクラスタイトル獲得 500ccクラスでミック・ドゥーハン(ホンダNSR500)が世界チャンピオンになる。ドゥーハンの500ccクラス5連覇の始まりである。 1995年 - 1996年 - 1997年 - 1998年 - ミック・ドゥーハン 500ccクラスで5連覇 ミック・ドゥーハン(ホンダNSR500)が500ccクラスで5連覇を達成する。詳細は「マイケル・ドゥーハン#略歴」を参照 1999年 - アレックス・クリビーレ 500ccクラスタイトル獲得 アレックス・クリビーレ(ホンダNSR500)が500ccクラスの世界チャンピオンになり、ホンダのマシンが6年連続で500ccクラスのチャンピオンマシンとなった。 2000年 - スズキのマシンが7年ぶりに世界チャンピオンに ケニー・ロバーツ・ジュニアがスズキRGV500を駆り、500ccクラス世界チャンピオンになる。 2001年 - 今シーズンを最後に500ccクラス廃止、ホンダが通算500勝を達成 2001年シーズンを最後に500ccクラスが廃止になる。来シーズンからは500ccクラスに代わってMotoGPクラスが始まる。スズキは2002年から4ストロークマシンでMotoGPに参戦することを発表し、カワサキは2003年からMotoGPに参戦することを発表する。 ホンダは第1戦日本GP(鈴鹿)でロードレース世界選手権通算500勝を達成した。記念すべき500勝目は、1997年125ccクラス世界チャンピオンで1999年250ccクラス世界チャンピオンのバレンティーノ・ロッシ(ホンダNSR500)によってホンダに齎された。またロッシは今シーズンをもって廃止される500ccクラスの世界タイトルを獲得し、500ccクラス最後の世界チャンピオンとなった。
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