バブルと経済政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:06 UTC 版)
バブル景気が膨張を続けてしまい、また、バブル崩壊からの脱却に長期間を要した原因については、日本国政府・日本銀行(日銀)による、経済政策の一環として実行した金融引き締め策の失敗が指摘されている。 まず、バブルの発生については先に述べた通り、1985年のプラザ合意による急速な円高に伴うデフレ圧力と金融緩和の長期化予想によって名目金利が大きく低下し、それが貨幣錯覚を通じて土地や株への投資を刺激したこと、また貿易摩擦解消のため国内需要の拡大を国際公約し公共事業の拡大および減税策が採られたこと、が原因とされている。政府は、数次にわたり経済対策を策定し、1987年5月には6兆円を上回る財政措置を伴う「緊急経済対策」をしたが、景気は1986年11月を底に既に回復していたため、景気を刺激し過ぎたという批判がある。 第二に、バブルの膨張を抑止できなかった理由として、金融緩和を続け過ぎたことが指摘されている。公定歩合は1987年2月に2.5%に引き下げられ、その後1989年5月までこの水準を維持した。実は1987年9月には日銀の理事たちは利上げに踏み切る方針を確認していたが、10月19日のブラックマンデーによる世界的な株価の下落があり、利上げが見送られた。1986年11月に日本の景気は底入れが確認されていたが、ブラックマンデーによるドル暴落を阻止するため、対米協調から低金利政策を1989年5月までの2年3カ月の長期に渡って継続した。 金融緩和が続けられた国内の要因としては、第一に、政府が財政再建のために赤字国債からの脱却を目指しており、金融政策による景気刺激を求める政治的な圧力があったことがある。第二には、大幅な経常収支の黒字を背景とした円高圧力があったことから、金融緩和によって円高を回避しようという政府・与党などからの圧力があったことが指摘できる。急激な円高に苦しむ輸出企業の体力を強化するためにも金融政策は緩和的であるべきという認識もあった。この反省から、1997年に日銀法は改正されて、日本銀行の独立性が高められた。 元日銀行員でバブル期には同行総務局調査役などを務めた経済学者の翁邦雄は「資産価格の上昇は、金融政策運営において警戒信号として十分に活用されなかった」と指摘している。 しかしバブル膨張は金融政策のみによるものではない。政府は、国際化によって東京のオフィス需要が急拡大して、オフィスが不足するという試算を発表してバブル期の不動産投資をさらに過熱させた。財政面でも国の公共投資は抑制されたが、好景気によって税収が増加した地方自治体では地方単独事業の増加が見られ、これも景気を刺激することになった[要出典]。地方単独事業の増加には、国の財政赤字を抑制するために地方単独事業の増加を歓迎していたという背景もある[要出典]。 経済学者の飯田泰之は「日銀の低金利だけでバブルを生み出したとは説明できない。バブルは将来の東京の経済的位置づけを過剰に評価し過ぎたことによって生み出された」と指摘している。 2000年6月1日、日銀理事の増渕稔は大阪大学で講演し「過去に金融緩和された時期はいくらでもあるが、その度にバブルが発生したわけではない」と述べており「金融緩和がバブルの主犯」という見方に反論する一方で「1988年から1989年にかけての対応に問題があったと言えるかもしれない」「利上げが遅れ、低金利が永続するといった期待を生み、バブルを膨らませた可能性はある」と述べている。 元大蔵官僚でバブル期には大臣官房審議官(銀行局)などを務めた西村吉正は「民間活力・規制緩和・自由化が結果的に金融活動を異常に活性化させた原因かもしれない」と指摘している。西村は「護送船団方式がよくなかったし、市場原理がもっと浸透する金融システムにしておくべきであった」「バブル崩壊の初期段階までは、日本の間接金融・メインバンクシステムは、日本経済全体の保険として機能するという意識があった」と指摘している。
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