ニューヨークへの飛行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/13 01:48 UTC 版)
「Ju 390 (航空機)」の記事における「ニューヨークへの飛行」の解説
Ju 390の北米への飛行が最初に公に言及されたのは1955年11月11日発行のイギリスの雑誌「イギリス空軍フライング・レビュー誌(RAF Flying Review)」の中で、編集員の1人が航空記者のウィリアム・グリーンであった。雑誌の編集員達は2機のJu 390が飛行したという話には懐疑的であったが、1956年3月に彼らはこのことを明確に記述した読者からの手紙を掲載した。この手紙には1機が飛行し、ニューヨークの直ぐ北のアメリカ東海岸まで12マイル(19 km)の地点に到達したと書かれていた。 グリーンによると、1944年6月に連合国軍の情報機関が捕虜を尋問して1機のJu 390が1944年1月にボルドー近郊のモン=ド=マルサン駐留のFAGr 5(第5長距離偵察飛行隊)に配備され、 アメリカ合衆国沿岸12マイル (19 km)以内、ニューヨークの北までの32時間に渡る偵察飛行を実施したことを訊き出した。しかし、これは戦後すぐにイギリス当局により否定された。航空史家のケネス・ウェレル博士(Dr. Kenneth P. Werrell)は、この話が1944年8月の捕虜の尋問の1部と表題を「航空機エンジンと航空機器に関する一般報告書」という2つのイギリス諜報機関の報告書が元になっていると述べた。後者にはJu 390がロングアイランドの海岸の写真を撮影したと記されているが、その写真は1枚も発見されていない。 当該飛行については、イギリス空軍フライング・レビュー誌以降ウィリアム・グリーン自身の尊敬に値する著書「Warplanes of the Second World War (1968)」や「Warplanes of the Third Reich (1970)」を含める多数の書籍で言及されるが、どれも信頼性のある情報元からの引用ではないし、グリーンの著書を情報元としている著作者さえもいた。グリーン自身は、ずっと後年になってケネス・ウェレル博士にその飛行についてそんなに信憑性を感じていないと語った。 ウェレル博士は後年Ju 390の航続距離に関して可能性のあるデータを検証してみてこう結論付けた。フランスからニューファウンドランド島のセントジョンズまでの大円周回飛行は可能だが、セントジョンズからロングアイランドまでの更なる2,380 マイル (3,830 km)の周回飛行は「ほぼあり得ない」だろうと。 カール・ケスラー(Karl Kössler)とギュンター・オット(Günter Ott)も、彼らの著書「Die großen Dessauer: Junkers Ju 89, 90, 290, 390. Die Geschichte einer Flugzeugfamilie」の中でこの飛行について検証し、ロングアイランドへの飛行の謎を完全に明らかにした。最も重要なことは当該飛行が実施されたと思われる日時にフランスの近郊の何所にもそれに供されたと思われる場所が無いことである。ハンス・パンヘルツの飛行記録によると、Ju 390 V1号機は1943年11月26日にプラハに移送された。そこで一連のテスト飛行をこなし、それは1944年3月まで続いた。2番目に重要なのは、ケスラーとオットはJu 390 V1試作機が改造により構造上の強度に問題を抱えており、そのような飛行に必要な燃料を搭載して離陸する能力はありそうにないと指摘したことだった。当該飛行に必要な離陸重量は72トンであるが、V1号機の評価試験中の最大離陸重量は38トンでしかなかった。ケスラーとオットによると、Ju 390 V2号機はアメリカへの飛行はできなかった。その理由としてV2号機は1944年の9月/10月にはまだ実働状態になっていなかったことを示した。しかしながら1944年には洋上で長距離飛行任務に当たるJu 290を支援する為の空中給油機としてのJu390の運用実験が計画されており、1943年末の段階でドイツ空軍の空中給油システムが完成の域に達していた場合には、当然の事ながらJu390がプラハを発進した上でのニューヨーク到達が可能となる。
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