ニュートンの思想への入門
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「エミリー・デュ・シャトレ」の記事における「ニュートンの思想への入門」の解説
24歳になったエミリーはド・リシュリュー公爵と恋愛関係を持ち、この関係は1年半程続いた。ド・リシュリュー公爵は文学と哲学に関心があり、彼女は同じ水準で会話の通じる数少ない女性の一人だった。彼女は関連文献を読み漁り、劇場にも頻繁に通い、知的な会話を楽しんだ。このとき彼女が語ったニュートンの業績に関する興味に対し、ド・リシュリュー公爵は高等数学の講義を受けてニュートンの理論をより深く理解するよう勧めた。こうして科学アカデミー会員のピエール・ルイ・モーペルテュイが彼女に幾何学を教えることになった。モーペルテュイは数学者、天文学者、物理学者であり、アカデミーにおける関心の的となっていたニュートンの理論を支持していた。家庭教師でもあり愛人でもあった。 数学の師となったアレクシス・クレローは、『プリンキピア』を翻訳するエミリーを支え、関連する計算式を確認した。高等数学の手ほどきを受けたエミリーは、1740年代にはヨーロッパ数学界の牽引者たちと手紙をやりとりした。偏見のない反応を得られるよう、科学的著作を匿名で発表した。 1734年夏、エミリーはヴォルテールを庇護した。ヴォルテールはニュートンの自然哲学に魅了され、フランスの知識階級にニュートン主義を知らしめようとしており、エミリーと意気投合した。ヴォルテールはエミリーにとって結婚後にできた4番目の愛人であり、ヴォルテールがロンドンへの旅行から戻った後に二人は出会った。彼女はヴォルテールをフランス北東部オート=マルヌ県のシレ=シュール=ブーレーズ村 (Cirey-sur-Blaise) の別荘で暮らすよう誘い、二人の交際はこの後長く続いた(夫は寛大にもこれを許していた)。新しい住まいには各自に専用の仕事場があり、12000冊の蔵書のある書庫や最新の科学機器を備えた実験室に出入りできた。エミリーはここを「我がアカデミー」と呼び、物理学と数学の研究を行い、科学論文や翻訳記事を出版した。エミリーの助けを得て、ヴォルテールは1738年に『ニュートン哲学要綱』を出版した。ヴォルテールが友人に宛てた手紙や二人がお互いの仕事に関して付けたコメントから判断するに、二人は愛と尊敬を大いに育んでいたようである。 エミリーは人生最後の数年をロレーヌ公国のリュネヴィル城内のスタニスワフ・レシチニスキの宮廷で過ごした。スタニスワフの娘のマリーはルイ15世と政略結婚し、スタニスワフはルイ15世によって1738年にロレーヌ公国を与えられた。科学、芸術、慈善事業に関心を持ち、自分の名を冠した科学アカデミー(フランス語版)を設立した。1748年、スタニスワフはヴォルテールとエミリーに参加を呼びかけ、2人はリュネヴィル城に赴いた。この頃ジャン・フランソワ・ド・サン=ランベール(英語版)と出会い、愛人関係になった。1749年初め、懐妊に気づいた。彼女は友人に宛てた手紙の中で、高齢のために出産に耐えられないかもしれないという恐れを告白している。出産時の落命に備え、『プリンキピア』の翻訳と註解を完成させるため、毎日何時間も作業を続けた。『プリンキピア』の翻訳と註解を書き終えた数日後の1749年9月4日、女児を出産した。6日後の9月10日、遅い時間に意識不明となり、息を引き取った。ヴォルテールが彼女を看取った。医師は死因を特定できなかったが、血栓症だといわれる。娘も生後18か月で亡くなり、母の隣に埋葬された。 ヴォルテールは、友人であるフリードリヒ2世に宛てた手紙で、エミリーのことを「彼女は偉大な人物だった。唯一の欠点は女だったことだ」と評しているが、当時の世相からすれば大変な褒め言葉であった。
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