トレックボーア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 02:25 UTC 版)
詳細は「:en:Trekboers」を参照 時には雇い入れたVOCの使役人に喜望峰開拓者の権利が与えられたが、VOCは自分達が必要と思しき時にいつでも使役に戻るよう強制する権力を保持した。人々を隷属させるこの権利は、指定された本人に施行されるだけでなくその子供も適用される、と行政府によって主張された。 この専制政治には、1700年のトレック(集団移住)が始まる前でさえ、大勢が絶望を感じて圧政からの逃避を引き起こした。1780年、ヨアヒム・ファン・プレッテンベルク総督はスネーウベルゲ山地を植民地の北の境界にすると宣言し、重い罰則を設けて「農民が漫然とうろついて向こうへ行くのを禁じる」と表明した。1789年、開拓者間で感情が非常に高まったため代表団が派遣され、オランダのアムステルダムで当局者への聞き取り調査が実施された。この代表派遣後、名目上の改革が幾つか認められた。 スネーウベルゲ山地から降りるグラーフ=ライネ付近の様子 オウテニカ山のクラドック峠を通過する様子 トレックボーアの野営 カルー(現:カルー国立公園)を横断するトレックボーア 農民達が政府のお膝元から遠隔地へと集団移住したのは、主に圧政から逃れるためだった。VOCは移民を管理するため、1745年にスウェレンダムそして1786年にグラーフ=ライネで、別の行政府を設立した。1740年頃はハムトース川が植民地の東境界だと宣言されていたが、すぐに境界は川を超えた。しかし1780年、オランダ人はバンツー族との衝突を避けるためグレート・フィッシュ川を共通の境界にすることで同意した。1795年、バンツー族に対抗する庇護もないまま重税を課された境界地区の開拓者は、VOCの役人らを追放してスウェレンダムとグラーフ=ライネに自治政府を設立した。 19世紀のトレックボーア達は、18世紀トレックボーア達の直系子孫だった。19世紀末には、トランスヴァールのVOC政府と同じく横暴な専制政策の復活が見られた。18世紀のVOC政権が「全ての政治的事象は純粋に専制的、全ての商業的事象は純粋に独占的」という図式だとして、19世紀後半のポール・クリューガー政権にもそれが同様に当てはまった[要出典][要説明]。 集団移住を可能にした基盤となる事実としては、植民地の東部と北東部に住む入植オランダ人の子孫が土壌耕作者ではなかったこと。純粋に牧歌的かつ遊牧的な習慣で、集団のために新たな牧草地を求める準備を整えており、特定地域に特別な愛着を持たなかった点である。広い領土に薄く分散したこれらの人達については、1815年に「巡回委員会(Commissions of Circuit)」という組織によって司法官が住居に近づいた際に様々な犯罪が明るみとなり、その矯正が多くの遺恨を引き起こした。 植民地の東部および北東部の入植オランダ人子孫は、グレート・トレックの結果として、政府の統治から逃れて広範に広がっていった。しかし、1815年に巡回委員会が、トレックボーアによる犯罪(特に、奴隷にされた人々に対するものが多数含まれる)を司法に照らして、犯罪の告発ができるようにした。この告発制度はトレッカー達に非常に不評で、自分達の財産だと見なしていた奴隷を占有する自分達の権利を妨害していると考えられた。 トレックボーアの進行を示す地図(1700-1800) オランダ領ケープ植民地の経年変化 (1700-1800) オランダ領ケープ植民地の行政区画
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