テロとの戦いとイラク戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 09:07 UTC 版)
「英米関係」の記事における「テロとの戦いとイラク戦争」の解説
「対テロ戦争」、「アメリカ同時多発テロ事件」、「ロンドン同時爆破事件」、および「イラク戦争」も参照 2001年9月11日のアルカイダのテロ攻撃により、ニューヨークのワールドトレードセンター、アーリントン郡のペンタゴン、そしてペンシルベニア州シャンクスビル近郊の平野で、67人のイギリス人を含む2977人が死亡した。このアメリカ同時多発テロ事件に際して、イギリスからは同情の念が多く寄せられ、当時のトニー・ブレア首相はジョージ・W・ブッシュ大統領にとってアルカイダとタリバンを正義へと導くための最高の支援者であった。ブレアは最も明瞭な代弁者となり、また、事件後に招集された緊急合同議会に出席した唯一の外国首脳でもあった(それまでも同様の会合に唯一の外国首脳として出席し続けており、2度のスタンディングオベーションを受けた)。 アメリカ合衆国は対テロ戦争を宣言し、イギリス軍はNATOのアフガニスタン紛争に参加した。中露仏独加が反対するなか、ブレアは2003年のイラク侵攻(英語版)を率先して提唱した。イラク出兵において、再びイギリスはアメリカに次ぐ二番手であり、2011年に最後の部隊を撤収させた。ブッシュとブレアは持続的な政治・外交支援を相互に提供し、自国では各々の議会で選挙に勝利した。 2005年7月7日のロンドン同時爆破事件は、英米両国にテロの脅威の性質の違いを強調した。アメリカはアルカイダのネットワークや中東からの他のイスラーム過激派のような世界の敵に重きを置いた。ロンドンでの事件はイギリス育ちの過激派ムスリムによって実行され、自国民の過激化によるイギリスの脅威を際立たせた。 イギリスの利益団体「リバティ(英語版)」による、イギリスの空港が中央情報局(CIA)によるテロリストなどの囚人特例引き渡し(英語版)に利用されたとする主張の後、2005年11月に英国警察長協会(英語版)(ACPO)が捜査に乗り出した。報告書が2007年6月に出されるも、その主張を裏付ける証拠は見つからなかった。しかし同日、ヨーロッパ議会がイギリスが引き渡しに際して共謀したという、ACPOのものとは真っ向から矛盾する報告書を発表した。2018年の英国議会のインテリジェンス・安全保障委員会(英語版)による報告書では、MI5とMI6がアメリカによる多くの引き渡しに協力しており、資金援助や機密情報の提供、そして故意にそうしていたことが明らかになった。 2007年までには、イラク戦争に対するイギリス国民の支持は急落した。ブレア政権の歴史的な低支持率にも関わらず、主にイラクが大量破壊兵器を保有しているという誤った政府の情報主張のため、アメリカとの同盟に対するブレアの揺るぎない姿勢は彼自身の言葉で要約することができる。ブレアは、「我々はアメリカの最も近しい同盟国であり続けるべきだ…アメリカが強いからではなく、彼らの価値観を共有しているからだ」と述べている 。ブッシュとブレアの同盟関係は、多くのイギリス国民の前でブレアの首相の立場を大きく傷つけた。ブレアは、誰が大統領であるかに関わらず、同盟はアメリカとの「絆を守り強める」ためのイギリスの国益であると主張した。しかし、一方的に妥協した個人的および政治的親密さの認識は、イギリスメディアにおいて英米両政府の「特別な関係」を表現するために「プードル主義」という用語の真剣な議論を呼んだ。2009年7月31日までに、イギリス軍は400人を除いてイラクから撤退した。 2009年6月11日、イギリスの海外領土バミューダ諸島はキューバのグァンタナモ米軍基地内にあるグアンタナモ湾収容キャンプとして知られる拘留施設から4人のウイグル人を受け入れた。アメリカ政府の要求により、バミューダ当局は8年前の2001年10月にアメリカ軍がアフガニスタンに侵攻中、パキスタンのバウンティハンターにより捕らえられたハリール・マムート(英語版)、ホザイファ・パルハト(英語版)、サラヒディン・アブドゥラハット(英語版)、アブドゥラ・アブドゥルカディラクン(英語版)の4名を迎え入れたのである。その決定を下すかどうかについて相談を受けているべきだったイギリスにより、バミューダ当局が代表責任を持たない安全保障および外国の問題として見なされたため、この決定は外務・英連邦省による相当の憤慨と軽蔑を招いた。
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