テロとの戦いと人権侵害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 16:24 UTC 版)
「アルベルト・フジモリ」の記事における「テロとの戦いと人権侵害」の解説
フジモリ政権初期、マオイスト系テロ組織センデロ・ルミノッソの激しいテロ攻撃とチェ・ゲバラ系のトゥパック・アマル革命運動(スペイン語版)が起こった。1992年7月16日、リマ、ミラフローレス地区のタラタ通りで20名もの犠牲を出した自動車爆弾爆発事件は、この時代を代表する流血事件となった。 国家警察(DIRCOTE)と軍隊(FF.AA)とを中心とした新たな「反=反乱作戦」が立案された。ペルー軍の助けを借り、パトロールをDECAS(反破壊的民間防衛委員会)に委ね、テロ組織のリーダーを逮捕した。その結果、ペルー国内でのテロ行為は大幅に減少した。 一方で、国家による抑圧や深刻な人権侵害に関連した暴力行為もあった。 1991年12月、15人もの市民が殺害されるバリオス・アルトス虐殺事件が起こった。 1992年7月にはエンリケ・グスマン・イ・バジェ国立教育大学で9人の学生と教授の殺害事件(ラ・カントゥタ事件)が起こった。これらのアクションは、テロ組織センデロ・ルミノッソの潜伏メンバーとの闘いのために設立された準軍事グループである「コリーナ部隊」によって行なわれた。これはペルー版「汚い戦争(la guerra sucia)」として見られた。 ペルーの海軍、軍隊、国家警察の情報サービスは、軍事訓練された通称「ロンデロス(Ronderos)」と呼ばれる民兵自衛組織Rurales de la Sierraと手を結び、テロ組織により強い打撃を与えた。 1992年7月、脱走中だったトゥパック・アマル革命運動のリーダー、ビクトル・ポライ・カンポスの逮捕が達成された。 9月12日、さらなるテロ組織への強烈な一撃が見舞われた。この日、ケティン・ビタル大佐(スペイン語版)が率いる国家テロ対策部隊(DINCOTE)の特別グループGEINは、ペルーでマオイスト体制を確立しようとしているセンデロ・ルミノッソの指導者アビマエル・グスマンを他の組織幹部とともに平和裡に捕らえることに成功した。 その後、センデロ・ルミノッソは撤退し、数年後にはペルー高原の森へとその規模を縮小され、重大な脅威ではなくなった。 このようにしてフジモリは10年にも渡るテロ活動を縮小へと導いた。 これに関して、真実和解委員会(la Comisión de la Verdad y Reconciliación(CVR))は、「一般的な結論」として以下のように述べている。 50、真実和解委員会は1985年から国家警察の諜報活動がテロ組織の組織形態と行動に関するより正確な知識を得るようになり、結果、国家テロ対策部隊(DINCOTE)による組織指導者の逮捕が達成された事、とりわけ、1992年7月にビクトル・ポライ・カンポス、同年9月12日にアビマエル・グスマンの逮捕はテロ組織を戦略的敗北へ導く要因となった事を記録している。 100、(しかし、同時に)1992年に開始された「反=反乱作戦」は反乱者たちの政治行政組織(OPA)から選択的な排除をしている。ペルー国家情報局顧問ブラディミロ・モンテシノスに関連して、「コリーナ部隊」と名付けられた死の部隊が行動し、殺人、強制失踪、虐殺を行なった。真実和解委員会は、アルベルト・フジモリ大統領とブラディミロ・モンテシノスとペルー国家情報局高官が「コリーナ部隊」によって行なわれた殺人、強制失踪、虐殺に対して刑事責任を負うことを確認する証拠を握っている。 一般的な結論―真実和解委員会
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