タウプリッツとヴィケルスンの新フライング台とK.O.Pの確立(1950-1960年代)
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1951-1952シーズンからFISはスキーフライングを監督下に置くことを決定した。1950年に完成したタウプリッツのクルム大ジャンプ台が1952年に拡張されてフライング台となった。FISはプラニツァ、オーベルストドルフと合わせた3か所のフライング台持ち回りで年1回「FIS国際スキーフライング週間」を開催することとした。したがって1953年の国際スキーフライング週間はクルムで開催、プラニツァでは次年度の開催となった。オーストリアとユーゴスラビアでの試合は、財政的にも競技としても失敗だった。ドイツのニュース誌シュピーゲルは、"乱立する巨大なスポーツイベント"の1つになったこの3ジャンプ台のイベントにおいて新しいレコードの達成は事実上不可能であることを指摘した。1955年にオーベルストドルフで開催されたスキーフライング週間では飛距離に制限が設けられた。K点(オーベルストドルフは120m)距離の108パーセントを飛距離の上限に定め(120×1.08=129.6m)、また飛距離だけでなく、初めて飛型点が導入され、総得点で順位を決定することとした。これらの決定は飛型審判の主観が入るとして観客に不評であったが、スキーフライング週間はFISの次シーズンのプログラムにも加えられた。 FISは1957年のスキーフライング週間が「大成功」だったと述べた。この時期もっとも成功したジャンパーは東ドイツのヘルムート・レクナゲルで、1957年から1962年のスキーフライング週間で5度の優勝、2度最長不倒を記録した。しかし1951年のタウノ・ルイロの記録を上回ることは無かった。1961年、ユーゴスラビアのJože Šlibarが141mを飛んで10年ぶりに世界記録を更新した。 1962年クルムでのFISスキーフライング週間の際には14カ国から当局関係者、コーチ、FIS審判員が参集した。リュブリャナの会議では、オーベルストドルフヒルの建築家ハイニ・クロッパーの提案で1962年10月27日にスキーフライングの国際協会が設立された。新設された「国際スキークラブプラニツァK.O.P.」(KOPは3つのフライングジャンプ台クルム(Klum)、オーベルストドルフ(Oberstdorf)、プラニツァ(Planica)の頭文字を採ったもの)はスキーフライングに関する権利の保有とFISスキーフライング選手権の主催権を得た。この計画はスキーフライング世界選手権の実現までに10年を要した。この遅延は、主に北欧諸国の拒絶反応に起因した。FISの技術委員会の代表者は、スキープログラムの拡大に取り組み続けた。 1965-1966シーズンに、長年スキーフライングに対して否定的であった北欧で初めてのフライング台が、Østerdalenのスキークラブとの誘致合戦に勝ったヴィケルスンのスキーセンター内に完成した。1966年のオープニングゲームでビョルン・ヴィルコラが145mの新記録を樹立、続けて146mまで記録を伸ばした。ノルウェー人による記録更新は1935年にライダル・アンデシェンが99mを記録した時以来31年振りの事であった。 1967年にオーベルストドルフでラーシュ・グリニが150mの大台に到達、同年ヴィケルスンでラインホルト・バハラーが154mを記録した。 1969年、プラニツァにブラドとヤネスのゴリシェク兄弟の設計による更に巨大なジャンプ台「レタウニツァ・ブラトウ・ゴリシェク」が完成、1969年3月21日にヴィルコラとイジー・ラシュカが156mを飛ぶと翌日にはヴィルコラが160m、ラシュカが164m、3月23日にはマンフレート・ウォルフが165mを記録した。 ヤネス・ゴリシェクは新記録ラッシュの最中1970年に質問に答えて次のように述べている。「良好な条件下で経験豊富なジャンパーは200mの飛行が出来るだろう」 この頃オスロでは200mジャンプが可能な台が計画されたが、構想に留まった。
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