ソ連・東欧公演、および豊富な現地録音
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「ロイヤルナイツ (ボーカルグループ)」の記事における「ソ連・東欧公演、および豊富な現地録音」の解説
ロイヤルナイツの海外演奏旅行は、ソ連公演に限定すると7回、ソ連・東欧公演として数えると8回となる。1回のソ連公演では、約2ヶ月かけて、ほぼ全土を回る。 コンサートの全合計回数は、350回説から500回説までかなり幅があるが、今日(21世紀)の日本では、500回説が主流のようである。また歳月と共に、それが7回(ソ連のみ)の合計か、それとも8回(ソ連と東欧)かという区別も、曖昧に語られることが多くなっている。 ソ連公演は、1966,1967,1968,1970,1972,1975,1978年の計7回。東欧公演(ルーマニア→ハンガリー→ユーゴスラビア)は、1968年、第3回訪ソに先立って約1ヶ月間行われた。 バンドのピアニストは、1966年・68年が菅野光亮、1967年・70年・72年・78年が結城久。 同行・共演した歌手は、1966年が須美杏子、1968年が早川令子、1970年が大庭照子、1972年が泉麗子・長沢澄子、1975・78年が滝むつみ。 ソ連公演に先立ち、山下は他のメンバーのロシア語を特訓し、発音を現地の聴衆に通用するレベルにまで鍛え上げた。加えて、山下自身も、並み居る現地有名歌手を悉く凌駕するほどの卓越した歌唱力の持ち主であったことから、最初のソ連演奏旅行で、ロイヤルナイツは一気にスターダムにのし上がることになる。想定外の人気沸騰により、第1回訪ソでは各都市で追加公演が次々と為され、最初のレコーディングも行われた。 この人気爆発のゆえに、以降、ロイヤルナイツは毎年のようにソ連に招聘されることになり、レコーディングの機会も更に与えられることになった。 当時のソ連国営レコード会社のレーベル「メロディア」から、さまざまなEP・LPが出されている(詳細は次章参照)。枚数も多く売れたので、今日の旧ソ連地域にも多数現存すると考えられ、YouTubeにも盛んに投稿されている。 ステージではロシア民謡・ソ連歌謡がふんだんに歌われたが、メロディアの収録曲は、当時流行の日本の歌謡曲が中心であった。歌詞は、大半が日本語のまま歌われたが、『明日があるさ』(露訳題 У нас есть завтра、収録1966年)や、『涙の日曜日』(露訳題 Я иду искать тебя、収録1970年)のように、日本語歌詞と露訳された歌詞を交互に歌った例もある。 歳月と共に忘れられ、検索が著しく困難となった曲もある一方で、『ウナ・セラ・ディ東京』(露訳題 Вечерний Токио、収録1968年)の如く、日本歌謡史上に残る名曲も少なからず存在する。レコード・ジャケット共に印刷がすべてロシア語であるため、日本ではこの録音群の存在すらほとんど知られていないが、演奏レベルは極めて高く、今後の再評価が大いに待たれるところである。 「メロディア」のロイヤルナイツのレコードの作曲者名・作詞者名には誤植(ミスプリ)が多いので、注意が必要である。 また、レコード以外にも、放送番組収録、コンサート会場のフィルム撮影などにより記録された優れた歌は相当数あると考えられ、それはYouTube投稿からもうかがい知れる。 (以下、参加メンバーは、トップテナー‐セカンドテナー‐バリトン‐バスの順)
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