ロイヤルナイツ (ボーカルグループ)とは? わかりやすく解説

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ロイヤルナイツ (ボーカルグループ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/08 23:45 UTC 版)

ロイヤルナイツ(Royal Knights[1]は、1959年に結成された男性4人の合唱団(コーラス・グループ)。ロイヤル・ナイツと表記されることもある。


  1. ^ ソ連公演では、原発音「ロイヤルナイツ」(Ройял Найтс)に「カラリェーフスキエ・ルィーツァリ」(Королевские Рыцари=「皇帝の騎士」)を併用していたが、KnightsをNightsと誤記したYouTube投稿は、今日でも稀にではあるが時折見られる。
  2. ^ a b 1979年説もあり。「ノート」参照。
  3. ^ 第1回・第2回ソ連公演を報じた新聞・雑誌では、「くすのせ・けんじ」(朝日新聞・1966年11月19日(夕刊)・12月21日(夕刊)・1967年9月9日(夕刊))ないし「くすのせけんじ」(『音楽の友』1967年4月号・p.188、朝日新聞・1967年12月1日(夕刊))となっている。
  4. ^ a b 舟田(均)、舟田(勝)、くすのせの来歴”. “てんてこ舞い“様. 2021年9月9日閲覧。
  5. ^ a b c 結成メンバーによるLP『ロシヤ民謡の花束』(1965年、ビクター SJV91)のジャケット裏面解説(文・伊藤強)より。この解説では結成年は「1960年」と、通説より1年遅くなっている。また裏面でのタイトル表記は『ロシア民謡の花束』。
  6. ^ a b 『NHK ロシア語入門』1974年1月号(日本放送出版協会。『ロシア語入門』はラジオ講座の当時の名称)、p.79 のロイヤルナイツ紹介記事では、松川は「京都生まれ」、勝山は「佐賀生まれ」となっている。神戸出身・福岡出身は再結成(1988年)以降の事務所の公式発表だが、もし両方とも正しければ、松川は京都生まれの神戸育ち、勝山は佐賀生まれの福岡育ちとなる。
  7. ^ a b c 1970年のソ連現地録音の「メロディア」レーベルのLP(33Д028407-08)ジャケットでは、向かって左から松川・山下・勝山・佐々木の順に並んだ大きな肖像画が採用され、解説にも「…ケンジ・ヤマシタ-第2テノール、クニオ・カツヤマ-バリトン、…」とロシア語で明記されている。実際の録音でも、「セカンドテナーの山下」「バリトンの勝山」らしき声が随所に聞こえる。
  8. ^ 『NHK ロシア語入門』1974年1月号(日本放送出版協会)、p.79。
  9. ^ 『NHKラジオ・ロシア語講座』1993年2月号(日本放送出版協会)、p.62。および本人ステージトークより。
  10. ^ 本人ステージトークより。当時、日本語習得に大変苦労していたにもかかわらず、先生や同級生がとても親切にしてくれた、と述べている。
  11. ^ 『NHKラジオ・ロシア語講座』1992年4月号(日本放送出版協会)、p.78。当時のNHK国際放送は、通称ラジオ・ジャパンだが、ロシア語ネット上のロイヤルナイツ評伝では、これがしばしば誤訳されている。
  12. ^ 『NHKロシア語《歌と詩》カセットテープ』(日本放送出版協会、昭和48年(1973年)9月25日)p.46。および『NHKテレビ ロシア語会話』1998年12・1月号(日本放送出版協会)。テレビ『ロシア語講座』は、1990年4月に『ロシア語会話』と番組名を変更した。
  13. ^ 『NHKテレビ ロシア語会話』1995年4・5月号(日本放送出版協会)、p.48「演奏者紹介」。NHKTV「ロシア語会話」が、20分×週2コマ(再放送あり)だった1992年度~1997年度は、主に月の第5週に、山下が20分かけて1つの歌の指導と範奏を行なっていた。共演ピアニストはナターリア粟沢。
  14. ^ a b 牧野の主宰団体「社会を音楽化する研究会」(有限会社 文化センターボックス内)のサイト内「セラピー音楽家 牧野俊浩プロフィール」[stage.yakkora.com/profile.html](2021年1月13日現在セキュリティ保護なし)より。
  15. ^ ネット上では1974年となっているものが多いが、山下→牧野の交代は、1975年晩夏~秋に為されたと見るのが妥当である。根拠は、(1)1975年のソ連公演で、モスクワ・オスタンキノテレビで収録された画像が、YouTube公式チャンネル(旧ソ連ゴステレラジオフォンド)によって収録年入りでアップされているが(公開2019年8月1日)、歌っているのは松川・勝山・山下・佐々木の四人である。(曲は全部日本語歌詞の『恋のバカンスКаникулы любви)。尚、1978年8月7日の朝日新聞(夕刊)によると、1975年のソ連公演は「1月」となっている。  (2)日本コロムビアのLP『ロシア民謡、凍れる大地からの歌』(GZ-7034)の収録は、1975年7月4・6・12日に、山下も参加して行なわれた。そして同年11月19・20日、12月16日に、新メンバー牧野を迎え、同社のLP『宵待草・初恋』(GZ-7040)が収録されている。
  16. ^ ザ・ブレッスン・フォーの元メンバーと共に結成。
  17. ^ NHK朝の連続テレビ小説ロマンス』の放映された1984年は、ロイヤルナイツは解散していたはずである。(主題歌『夢こそ人生』のメイン歌唱は芹洋子榎木孝明、作曲は山本直純。) また同年の世界歌謡祭では、コーラス担当がロイヤルナイツとなっている。単なるミスプリか、それとも実際に臨時編成が為されたのか、要検証事項である。
  18. ^ 1970年のソ連現地録音のメロディアのLP(33Д028407-08)では、この2曲の露訳タイトル(Маленькое кафе『Bというスナック』、Кофе и вино『コーヒーとマルティーニ』)と中身(いづれも歌詞は日本語で歌われている)が、そっくり入れ替わっている。
  19. ^ 再結成(1988年)以降の、日本航空の招きによる海外コンサートは、ここには含めない。
  20. ^ 佐々木襄のソロLP『ロシアの歌』(東芝EMI、TA-72124、1985年)のライナーノーツより。
  21. ^ 日本経済新聞・夕刊(首都圏版)、1989年9月22日「[ただいま制作中]ロイヤル・ナイツ 別々の道、10年ぶり合流」より。この記事では、「ソ連45都市で500回にのぼる公演」となっている。
  22. ^ a b c 「ボーカルのロイヤル・ナイツがソ連へ三度目の公演」読売新聞(夕刊)1968年4月20日、第12面。
  23. ^ 朝日新聞(夕刊)、1966年11月19日。
  24. ^ a b c 「ロイヤル・ナイツがソ連へ」毎日新聞(東京夕刊)1968年4月30日、第9面。
  25. ^ 菅野光亮のバンドは、ソ連公演に際し「菅野光亮クインテット」と名乗っている。
  26. ^ 読売新聞(夕刊)、1967年9月13日。
  27. ^ 読売新聞(夕刊)、1970年1月31日。また同年のメロディアLP(33Д028407-08)にも記載あり。
  28. ^ a b 滋賀朱実「音楽を通しての心の交流 "ロイヤル・ナイツ" 5回目のソ連公演」(『今日のソ連邦』(ソ連大使館広報部発行、日本語)1972年8月1日号(同年第15号) p.28-9)。滋賀は当時のマネジャー。
  29. ^ 朝日新聞(夕刊)、1978年8月7日。また翌年発売のメロディアLP(С60-11687-88)にも記載あり。
  30. ^ 結城久のバンドは、一連のソ連公演に際し、「結城久とアンサンブル・ミュゼット」と名乗っている。
  31. ^ 朝日新聞(夕刊)、1966年11月19日。また翌1967年発売のメロディアEP(33Д00019329-30)に録音あり。
  32. ^ YouTube (Юуко Фунада(ユウコ・フナダ)の表記と音声解説あり)。※このYouTube動画の出典は、ニュースフィルムサイトНовости дня/хроника наших дней №50(1967)(1967年12月のニュースフィルム)” (ロシア語). net-film.ru. 2022年10月20日閲覧。画面上部の動画をクリックすると視聴でき、ロイヤルと舟田由子は 5:47-7:43 に登場。「ユウコ・フナダ」と音声解説あり。画面下部の見出し語(5番目)では、略称"Ройял"(ロイヤル)が "Фойял"(フォイヤル)と誤植されている。
  33. ^ 毎日新聞(夕刊)1968年4月30日(第9面「ロイヤル・ナイツがソ連へ」)。この記事によると令子は、米国でも活躍した映画俳優・早川雪洲の長女で、劇団「雲」所属の女優だが、銀座でアルバイトで歌っているところを菅野光亮にスカウトされた。(『音楽旬報』1968年4月21日(第5面「早川令子 ロイヤル・ナイツとソ連、東欧へ」)には「銀座のシャンソン喫茶で歌っているところをリーダーの舟田(バリトン)にスカウトされた」とある。)
  34. ^ 読売新聞(夕刊)、1970年1月31日。また同年のメロディアLP(33Д028407-08)に録音・解説あり。
  35. ^ 滝むつみ公式サイト「夢見中くらぶ」[www.takimutsumi.com/profile/profile.html] (2021年1月13日現在セキュリティ保護なし)より。また78年公演に関しては、朝日新聞(夕刊)・1978年8月7日にも記載あり。
  36. ^ 朝日新聞(夕刊)、1966年12月21日。
  37. ^ a b 朝日新聞(夕刊)、1967年9月9日。
  38. ^ 当時の日本で「ロシア民謡」とひと括りにされていた『トロイカ』『カチューシャ』などは既にソ連では歌われていない、という情報は、第1回訪ソの前には既にソ連側からもたらされていたため、ステージでのソ連歌謡は、常に当時の最新ソ連レコードから選曲・採譜され準備された(『音楽旬報』1966年12月1日)。
  39. ^ 朝日新聞・1966年11月19日(夕刊)・12月21日(夕刊)、および『音楽の友』(音楽之友社)1967年4月号、p.188-193「3万キロ歌いあるき〈ロイヤルナイツ、ソ連の旅〉」より作成。
  40. ^ 「3万キロ歌いあるき〈ロイヤルナイツ、ソ連の旅〉」(『音楽の友』(音楽之友社)1967年4月号、p.188-193)。
  41. ^ この時、往きの同じ船に乗り合わせた人物の目撃証言があるが、ロイヤルナイツは「カルテット」ではなく「グループサウンズ」と認識されている。「1967年9月私は初めてモスクワへ旅した。当時空の便は無く、横浜から汽船に乗り2泊3日の航海でナホトカへ、汽車に乗り継ぎ翌朝ハバロフスク、そして飛行機でモスクワへ向かう都合3泊4日の行程であった。船はソ連の客船でオルジョニキーゼ号。...余談で私事に亘り恐縮だが、横浜からの旅に偶然グループサウンズ「ロイヤルナイツ」のメンバーと一緒になり、それ以来山下健二氏とは今も親交を篤くしている。その時教わったロシア歌謡「八月」という歌が気に入っていつも季節が来ると口ずさんでいる。」(環日本海経済研究所(ERINA)Web上コラム『「国境」私考』千々松和夫・サハリン日本センター所長(肩書は当時)、2005年7月1日[1])。尚「当時空の便は無く」は千々松の思い違いで、実際には1967年4月に東京‐モスクワ間の直通定期旅客航空路線が就航開始している(「トラベルウォッチ・インプレス」の記事[2]。また主要各紙の同年4月の記事でも確認可能)。最初は週1往復で、初代機は全116席のTu(ツポレフ)-114型機。片道運賃はエコノミーが193,900円、ファーストクラスが315,000円であった(日本航空の広告(1967年4月2日「読売新聞」第2面))。
  42. ^ 「オルジョニキーゼ号」関連以外の固有名詞と日程は、読売新聞・1967年9月13日(夕刊)、朝日新聞・1967年9月9日(夕刊)・12月1日(夕刊)より作成。
  43. ^ a b c 「早川令子 ロイヤル・ナイツとソ連、東欧へ」『音楽旬報』1968年4月21日、第5面。
  44. ^ 『音楽旬報』1968年4月21日では「6月10日から5日間」。
  45. ^ 『音楽旬報』1968年4月21日では「6月27日からソビエト公演」。
  46. ^ a b c d e f g 「リズミックな曲がうける ロイヤル・ナイツ東欧公演」『音楽旬報』1968年8月11日、第5面。
  47. ^ 山下健二「二十八年組大地の子 (10)運命の糸」『日刊木材新聞』(日刊木材新聞社)1996年7月6日第6面。尚、本文には「…「トルクメニア号」に二週間寝泊りして、見本市の開閉会式や…パーティー等で演奏会を開いてお祝いをした」とあるが、見本市の会期は5月22日-31日なので(朝日新聞・1968年4月2日第7面「水産機械 ナホトカで見本市 来月22日から10日間」、読売新聞・1968年6月8日第5面「商談40万ドル ナホトカ見本市」)、字義通りに取ると、ルーマニア公演に間に合っていないことになる。正誤訂正等の詳細は「ノート:#山下健二の文章から」を参照。
  48. ^ 避暑地の小さな町。西側観光客にも人気があった。『音楽旬報』1968年8月11日によると、ここの野外ステージでコンサートが開かれた。
  49. ^ 「アルメニアにとどけ歌声 コーラス「ロイヤル・ナイツ」が21日、日比谷で救済コンサート」読売新聞(夕刊)1989年1月18日、第17面。
  50. ^ 後述のラジオ番組『ムズィカーリヌィ・グローブス』の解説参照。
  51. ^ 『音楽旬報』1968年4月21日に掲載された予定は「8月20日頃まで滞在」。
  52. ^ 『音楽旬報』1968年4月21日には「当初チェコ、ルーマニア、東ドイツなどが」とあるが、「ルーマニア」がミスプリであることは明白である。同紙・同年8月11日では、メンバーが「ポーランド、チェコに行けなかったのが残念」と語っている。
  53. ^ ポーランド東ドイツの指導者は、チェコの「プラハの春」の影響が自国に飛び火するのを極度に警戒しており(岩田賢司「チェコ事件」。木戸蓊(しげる)・伊東孝之・編『東欧現代史』有斐閣選書(1987年2月)に所収、p.238)、域内には不穏な空気が漂っていた。そして当然、「プラハの春」を快く思わないソ連の動向も注視すれば、最悪の事態・チェコ事件(1968年8月20日)は5ヶ月前から予測可能であった。また、チェコスロヴァキアに「プラハの春」をもたらした、ドプチェク共産党第一書記の就任は1968年1月5日だが、同年2月25日には、保守派の巻き返しを図る陸軍少将シェイナが軍事クーデターに失敗し、米国に亡命する事件も起きている(同、p.231)。
  54. ^ 2020年1月22日に公式チャンネル「ラジオアルヒーフ」(Радиоархив)により投稿されたが、その後削除された(確認2021年3月14日)。別の投稿者による同一内容の投稿も為されていた(2021年3月14日現在)が、これもその後削除された(確認2021年9月6日)。
  55. ^ タタールスキーは2022年2月27日に逝去(享年82)。
  56. ^ ラジオアルヒーフによる投稿の見出しには、放送年月日不明(дата эфира неизвестна)と書かれていた。
  57. ^ 「モスクワの皆様、こんにちは」「3回目のソヴィエト公演」と、日本語、ロシア語の両方で語られている。またロシア語で、黒海カスピ海で泳いだことが語られている。
  58. ^ 番組収録の前日・前々日に公演が為され、お客様にとても喜んでもらえた、と語られている。
  59. ^ 厳密には、ウクライナ民謡をもとにしたソ連歌謡。1965年5月発表、作曲はワシリー・ミハイリュク(Василий Михайлюк)、作詩はニコライ(ウクライナ語ではミコラ)・ユーリチュク(Николай Юрийчук)。
  60. ^ パフムトワは『アンガラ川を下りて』(По Ангаре)の作曲者でもある。
  61. ^ a b 「ロイヤルナイツ 四度目の訪ソ」『今日のソ連邦』1970年第10号(5月15日)(駐日ソ連大使館発行、日本語)、p.45。
  62. ^ 『音楽旬報』の訳語をそのまま引用したが、前後の文脈から判断し、ソビエト連邦中央テレビのモスクワ本局のことだと思われる。
  63. ^ 読売新聞(夕刊)・1970年1月31日、および『音楽旬報』1970年4月11日より作成。但し、読売新聞では1968-9年の写真とメンバー表が、『音楽旬報』では1966年の写真が使われているが、現地録音のメロディアのLP(33Д028407-08)のジャケットには「クニオ・カツヤマ(バリトン)」の記載と、バリトン位置・勝山の肖像画が間に合っている。
  64. ^ ハバロフスク公演は1967年1月の第1回ソ連演奏旅行以来である。同じコンサートホールが使われた。
  65. ^ 同宿の日本人派遣技術者によると、ケメロヴォへの日本人の来訪は3年ぶりで、しかも日本人女性は初めてであった。
  66. ^ カザンのコンサートでは、5千人収容可のスポーツパレスが使われた。
  67. ^ 一行はミンスクでメーデー(ソ連では祝日)、即ち5月1日を迎えた。
  68. ^ 滋賀朱実「音楽を通しての心の交流 "ロイヤル・ナイツ" 5回目のソ連公演」(『今日のソ連邦』(ソ連大使館広報部発行、日本語)1972年8月1日号(同年第15号)、p.28-9)より作成。
  69. ^ 第2回ソ連公演の「オルジョニキーゼ号」の脚注参照。またロイヤルナイツは、1969年7月に、この曲を常田哲司(佐々木襄)の日本語訳詞により『夜ごとの想い AUGUST』と題して日本でレコード化している(CBSソニー、SONA-86046。読売新聞(夕刊)1969年8月21日に「ロイヤル・ナイツが歌謡調のレコード」と取り上げられているが、記事では作曲者名は省略されている)。但し日本語版は、当時の日本のムード歌謡調を極端に強調した編曲で、原曲とは相当印象が異なっている。のちにNHKのロシア語講座(TV・1975年10月の「今月の歌」。山下脱退直前のフルメンバーによる収録)、及びそれに関連して歌われたロシア語版(『NHKロシア語《歌と詩》カセットテープ』(日本放送出版協会、1973年9月25日)収録版)は、ゆっくりと奏でられる三連符のアルペジオを基調とした原曲の清冽な透明感をそのまま生かした編曲となっている。
  70. ^ 日本コロムビアのシングルCD『つる』(CODA-8784、1991年8月[D・8・21])のライナーノーツ、および滋賀朱実「音楽を通しての心の交流 "ロイヤル・ナイツ" 5回目のソ連公演」(『今日のソ連邦』(ソ連大使館広報部発行、日本語)1972年8月1日号(同年第15号)、p.28-9)より作成。滋賀は当時のマネジャー。フレンケリとの運命的な出会いの日は、前者では「4月」、後者では「5月23日」と大幅に異なっているが、演奏旅程の構成、および記事の書かれた状況などを総合的に判断し、後者を採用する。
  71. ^ 初年度(1973年度)の1年間のTV講座の「今月の歌」は1曲を2ヵ月のペース。2年目(1974年度)以降に1曲を1ヶ月と改められた。尚、TV『ロシア語講座』の放送用テキスト(日本放送出版協会)は、番組発足以来(途中1990年度より『ロシア語会話』と番組名変更)2003年度までの31年間、隔月刊であった。
  72. ^ 『NHKロシア語《歌と詩》カセットテープ』(昭和48年(1973年)9月25日、日本放送出版協会)、p.46。
  73. ^ NHKテレビ『ロシア語講座』のためにモスクワTVから招聘された初代アナウンサー。放送開始から約19年間、ソ連のテレビ局から招かれたアナウンサーが1年交代でレギュラー出演していた。アンナ・シャチーロヴァの所属は、本書では「モスクワ放送局アナウンサー」だが、『NHK ロシア語入門』1973年8月号(日本放送出版協会。当時のラジオ講座テキスト) p.61「アンナさんの印象」では「モスクワテレビ放送局アナウンサー」と、当時のNHKの内部でも訳語が必ずしも統一されていない。ここでは「モスクワTV」と表記する。
  74. ^ ゴッフは『ロシアの草原』『八月』の作詩者。尚、『八月』の日本語版であるシングルレコード『夜ごとの想い AUGUST』(CBSソニー、SONA-86046、1969年7月)では、原作詩者名が「 I. タラノフ」と誤記されている。
  75. ^ 1974年度~1975年度上半期(1974年4月~1975年9月)はソ連レコードを使用。その後はラジオの「今月の歌」は廃止。
  76. ^ 1978年8月7日・朝日新聞(夕刊)によると、第6回公演は「75年1月」。
  77. ^ 1978年8月7日・朝日新聞(夕刊)より作成。
  78. ^ 『赤いつるばら』は、1966年9月にリリースされた(キング BS-492 歌:梓みちよ)。作曲は平尾昌晃(当時は昌章)だが、メロディア版では作者名はタイトルの直後に (M.ヒラオ) とだけ印刷されており、作詩者の水島哲の名は抜け落ちている。
  79. ^ 『沈む太陽』(作曲・鈴木淳、作詩・大町志郎)は、1966(昭和41)年3月、ロイヤルナイツの結成メンバー(くすのせ・舟田兄弟・佐々木)によってリリースされた(ビクター、SV-365)。が、メロディア収録版では、歌詩の約二分の一が書き直されており、作詩者の位置には Д. Сига (= D.シガ) と印刷されている。
  80. ^ a b ブルー・シャトウ』の作詩は橋本淳だが、「作曲・作詩、T. イノウエ」と表記されている。
  81. ^ a b 『あの空の青さ』(作曲・白井幹也、作詩・檀 寛)は、1967(昭和42)年5月1日、ダークダックスによってリリースされた(キング、BS-638)。盤面の請求番号は、『どこまでも行こう』がSF-2247、『あの空の青さ』がSF-2248の順であるが、ジャケットのデザインは、『あの空の青さ』(新曲)のタイトルが『どこまでも行こう』(既製ヒット曲のカバー)よりも上に配置されているものと、『どこまでも行こう』のタイトルが『あの空の青さ』よりも上に配置されているものの2種類が存在する。歌い出しの1行目で、ダーク版「あの空の青さの…」、ロイヤルのメロディア版「あの空の青さは…」と、助詞1文字分の差異が見られる。作曲者の白井幹也は「しらい・みきや」と読むが(白井の親族に直接確認済み)、メロディア版では K.シライと誤記されている。また作詩者は檀寛ではなく S.ツカダとなっている。
  82. ^ a b 作曲者は宮川泰だが、Ya. ミヤガワと誤記されている。「ひろし(泰)」が「やすし」と誤読されたためと思われる。
  83. ^ a b 『涙の日曜日』の作詩はなかにし礼だが、M. オカノと誤記されている。
  84. ^ また逢う日まで』の作詩は阿久悠だが、S. ナカムラとなっている。『愛の奇跡』の作詩家・中村小太郎と混同したものと思われる。
  85. ^ レコード盤面およびジャケットには、Фейерверки (Ё. Мацукава - Х. Сакума)と印刷されている。即ちミスプリでなければ、作曲は松川義昭、作詩は H. サクマとなる。
  86. ^ 谷道夫『人生はハーモニー』(宮日文化情報センター、2005年11月1日。『宮崎日日新聞』の連載をまとめる)。槇野義孝の証言も有り。
  87. ^ NHKのVTRから確認可能。
  88. ^ 『NHKラジオ・ロシア語講座』1992年4月号(日本放送出版協会)、p.76-7。
  89. ^ 録画の冒頭には、投稿者による字幕「1965年2月」が入っているだけだが、朝日新聞(夕刊)および毎日新聞(夕刊)の1965(昭和40)年2月6日(土)のテレビ欄で、出演者「ベルチンスカヤ」(ヴェルチンスカヤの当時の一般的表記)の名が確認できる。放送時刻は午後10:10-10:50(総合テレビ)。更に朝日新聞夕刊(東京本社版)の同一ページ(同日第8面)の中段には、「"オフェリア"来日 ベルチンスカヤ嬢」の写真入り記事がある。ヴェルチンスカヤは、当時話題のソ連映画『ハムレット』(1964年、グリゴーリィ・コージンツェフ監督)にオフェリア役で出演したことから訪日が実現した。番組中の坂本九とのミニ・コントでも、ハムレット役のインノケンティ・スモクトゥノフスキーの名が言及されている。





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