第5回ソ連公演 (松川‐勝山‐山下‐佐々木)
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1972年4月~5月。4月7日にハバロフスク着、当地での全7回の公演を振り出しに、ケメロヴォ(初訪問)→ノボシビルスク→カザン(初訪問)→ミンスク→ビリニュス→リガ→オデッサ→ソチ→モスクワと回る。 『鶴』(Журавли)の作曲家ヤン・フレンケリ(Ян Френкель)との出会い モスクワ中央文化人会館は、ロイヤルナイツがこの街を訪れるたびに招かれ、地元芸術家たちとの交流を重ねて来た場所である。1972年、5回目のソ連演奏旅行では、5月23日、ソチから空路モスクワに到着したその晩、早速ここでソ連文化人のためのスペシャル・コンサートが開かれた。第一部が地元芸術家たちによる歌や踊り、楽器演奏、パントマイムなどの披露、第二部がロイヤルナイツのステージである。 ロイヤルナイツの演奏がすべて終わり、まだ感動の余韻も醒めやらぬ中、一人の大柄な紳士が舞台に上って来た。少し猫背で、口元には髭をたくわえている。 「自分の曲を外国人がこれほど素晴らしく歌ってくれたのは初めてだ。ありがとう、...ありがとう、...ありがとう、......」 この紳士こそが、ソ連ポピュラー音楽界で最も有名な作曲家の一人、ヤン・フレンケリであった。今回の公演で、ロイヤルナイツは彼の作品『ロシアの草原』(Русское поле) をプログラムに組んでいたのである。 ロイヤルナイツも、早くから彼の『八月』(Август)をレパートリーに加えるなどしており、これだけ美しい旋律を書ける作曲家に是非会ってみたい、とかねてから思っていただけに、この初めての出会いの瞬間は天にも昇るほど感動的であった。 コンサート後のパーティー会場には、『カチューシャ』の作曲家ブランテルや、『モスクワ郊外の夕べ』の作曲家ソロヴィヨフ=セドイらもいた。現地の有名歌手たちがお返しに歌ってくれたりして、賑やかなパーティーが一段落したところで、フレンケリがピアノに向かい、幾つかの自作の曲の弾き語りを始めた。ロイヤルナイツの一行が初めて耳にする歌も少なくなかったが、中でもとりわけ印象の強い、その場の一同が別世界の力に打たれたようにうっとりと聴き入っている曲が一つあった。それを歌い終えるとフレンケリは、 「あなた方の『ロシアの草原』(Русское поле)は素晴らしかった。だから、この曲は、是非あなた方にプレゼントしたい」 と、直筆の譜面を上着のポケットから出し、ロイヤルナイツに手渡した。 これが、名曲『鶴』(Журавли)とロイヤルナイツとの出会いである。が、この時の譜面は書き上げられたばかりで、まだ歌詞さえも記入されてはいなかった。 爾来、ロイヤルナイツは、この曲を40年以上に亘り歌い続ける。 帰国後の翌1973年4月、NHKテレビの新番組『ロシア語講座』の最初の「今月の歌」として、山下は『鶴』をロシア語で歌った。それは、日本人視聴者のみならず、在日ソ連人の間でも大変な反響を呼び、テレビの前で歌詩を書き取る人が続出する。 同年9月25日に、日本放送出版協会より上梓された『NHKロシア語《歌と詩》カセットテープ』(著者は、対訳と解説を担当した「藤沼貴・佐藤純一」となっている)では、詩の朗読はアンナ・ニコラーエヴナ・シャチーロヴァが、歌はロイヤルナイツが担当し、革命前のロシア民謡から戦後ソ連歌謡まで幅広い選曲が為され、『鶴』(Журавли)・『ロシアの草原』(Русское поле)・『八月』(Август)を含む全12曲が収録された。但しこの時は情報不足で、『鶴』の作詩者は「ユダヤ系女流詩人ゴッフ(Гофф)」と誤記されている。 また当時は、NHKのラジオ講座(当時の番組名は『ロシア語入門』)の応用篇(金・土、各20分)にも「今月の歌」のコーナーがあり、1973年度(1973年4月~1974年3月)はロイヤルナイツが担当したが、1973年9月に『鶴』が歌われている。
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