第5回パリ大賞典(1867年)
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「パリ大賞典」の記事における「第5回パリ大賞典(1867年)」の解説
5回目のパリ大賞典は1867年6月2日に行われた。この時パリはパリ万国博の真っ最中で、これを記念して賞金は大幅に増えて21万6000フランになった。ロンシャン競馬場には大観衆が詰めかけ、レースの出走前に警備隊が彼らを押しのけてコースを確保しなければならないほどだった。貴賓席には皇帝ナポレオン3世のほか、ロシア皇帝アレクサンドル2世とその姫、ベルギー王レオポルド2世と王妃、そして王太子の姿もあった。 この年は、イギリスダービー馬のハーミットは出走せず、2着のマークスマン(Marksman)がやってきた。しかしマークスマンはレース直前で取り消してしまい、マークスマンに騎乗する予定だったイギリスのトップジョッキー、ジョージ・フォアダム(en:George Fordham)は、地元フランスのフェルバスク(Fervacques)という無名馬に乗るしかなくなった。フェルバスクはパリ大賞典の前日に平凡なレースをアタマ差で辛勝して滑り込んできた馬で、67倍と全く人気がなかった。 本命にはフランスダービー馬のパトリシアン(Patricien)が推された。皇帝賞(後のリュパン賞)の優勝馬のトロカデロ(Trocadero)も出走してきた。パトリシアンもトロカデロも、1865年の勝者グラディアトゥールと同じくモナルク(Monarque)の産駒だった。。 観衆が驚いたことに、ゴール前では本命のパトリシアンと無名のフェルバスクが激しく争い、デッドヒート(同着)となった。両者の馬主は話し合って、2頭だけの決勝戦を行うことにした。この決勝戦も大接戦となったが、大変な審議の末に審判はフェルバスクがハナ差だけ勝ったと宣言した。パリ大賞典が同着になったのは後にも先にもこの1度だけである。 フランスダービーでは2着、パリ大賞典では3着といずれもパトリシアンの後塵を拝したトロカデロは、夏のドイツでパトリシアンを2回破った。秋にフランスに戻ると皇太子大賞(後のロワイヤルオーク賞)ではパトリシアンがトロカデロに雪辱した。
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