第5回パリ大賞典とは? わかりやすく解説

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第5回パリ大賞典(1867年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:45 UTC 版)

パリ大賞典」の記事における「第5回パリ大賞典(1867年)」の解説

5回目パリ大賞典1867年6月2日行われた。この時パリパリ万国博真っ最中で、これを記念して賞金大幅に増えて216000フランになったロンシャン競馬場には大観衆が詰めかけ、レース出走前警備隊が彼らを押しのけてコース確保しなければならないほどだった。貴賓席には皇帝ナポレオン3世のほか、ロシア皇帝アレクサンドル2世とその姫、ベルギー王レオポルド2世王妃、そして王太子の姿もあった。 この年は、イギリスダービー馬のハーミット出走せず、2着のマークスマン(Marksman)がやってきた。しかしマークスマンレース直前取り消してしまい、マークスマン騎乗する予定だったイギリスのトップジョッキー、ジョージ・フォアダム(en:George Fordham)は、地元フランスのフェルバスク(Fervacques)という無名馬に乗るしかなくなった。フェルバスクはパリ大賞典前日平凡なレースアタマ差で辛勝し滑り込んできた馬で、67倍と全く人気がなかった。 本命にはフランスダービー馬のパトリシアン(Patricien)が推された。皇帝賞(後のリュパン賞)の優勝馬トロカデロTrocadero)も出走してきた。パトリシアントロカデロも、1865年勝者グラディアトゥール同じくモナルク(Monarque)の産駒だった。。 観衆驚いたことに、ゴール前では本命パトリシアン無名のフェルバスクが激しく争いデッドヒート同着となった両者馬主話し合って、2頭だけの決勝戦を行うことにした。この決勝戦も大接戦となったが、大変な審議の末に審判はフェルバスクがハナ差だけ勝った宣言したパリ大賞典同着になったのは後にも先にもこの1度だけである。 フランスダービーでは2着、パリ大賞典では3着といずれもパトリシアン後塵拝したトロカデロは、夏のドイツパトリシアンを2回破った秋にフランスに戻る皇太子大賞(後のロワイヤルオーク賞)ではパトリシアントロカデロ雪辱した。

※この「第5回パリ大賞典(1867年)」の解説は、「パリ大賞典」の解説の一部です。
「第5回パリ大賞典(1867年)」を含む「パリ大賞典」の記事については、「パリ大賞典」の概要を参照ください。

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