ソ連当局との軋轢と出国
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「ラザール・ベルマン」の記事における「ソ連当局との軋轢と出国」の解説
ソ連当局はその頃になってさえ、断続的にベルマンの演奏旅行を縛ろうとした。1980年にランダフ音楽祭への出演はキャンセルされることになった。西側での演奏旅行が済むと、KGBの監視役がベルマンの旅行カバンから、ソ連邦でご法度のアメリカの文芸作品を押収したのである。結果として、ソ連当局によってベルマンは要注意人物に名指しされ、その活動は禁じられた。ベルマンがユダヤ系であるために、事態はこじれるばかりであった(ソ連においてユダヤ人は反体制派の烙印を押され、国外逃亡を行う輩と見なされていた)。上記の理由によりベルマンは、グラモフォンへ1980年にラフマニノフの前奏曲集と『コレッリの主題による変奏曲』を録音したのを最後に、西側のメジャー・レーベルから姿を消しているが、1986年にテミルカーノフ/ベルリン放送響とチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の原典版を録音している。 しかしながら、ソ連邦の存続が危うくなり、このような妨害活動の回数が下がると、ベルマンはついにロシアを去って1990年にイタリア入り(イタリアでの彼の評価は高く、人気をミケランジェリと二分していた)し、1995年にフィレンツェに定住した。イタリア移住に前後してファツィオリ社のピアノを愛用するようになり、1988年に再来日した際にも、この名器を用いて演奏を行なった。おそらく日本で公的な演奏に同社のピアノを用いたのは、ベルマンが初めてであろう。亡くなるまでマスタークラスを主宰し、日本人では山岸ルツ子、根岸弥生や大井浩明がベルマンの薫陶を受けている。没後にドイツとロシアで回想録が出版されている。
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