スピリトゥアル主義とコンヴェントゥアル派とは? わかりやすく解説

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スピリトゥアル主義とコンヴェントゥアル派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 10:31 UTC 版)

フランシスコ会」の記事における「スピリトゥアル主義とコンヴェントゥアル派」の解説

フランシスコ会教皇によって教会制度中枢に結びつけられ、「キリスト清貧」は制度化された。フランチェスコ晩年にはイタリアからヨーロッパ各地へと説教活動拡大し教区での司牧活動本格化していくなかで、早くもフランチェスコ自身一種ユートピア要請包含する会則厳格な適用緩和しようとする動き起こっているが、ローマ教皇庁はそれに対し積極的に緩和動きに応じている。それは、修道会組織強化のためには、「無所有」を旨とする会則厳格な適用大きな障害となったからであり、第二会則改正携わったグレゴリウス9世と、1243年から教皇となったインノケンティウス4世一連の教皇勅書発して無所有絶対的清貧原則物質的必要という現実とを調和させるための法的解釈導入した。それは、財の「使用」と「所有」を区別し、財の「所有」は認められないが「使用」は認められるというものであった。逆言すれば、「清貧」は法的解釈として「所有権放棄」と見なされ、修道会使用する財産所有権教皇座に帰属しフランシスコ会教皇財産を「使用」するだけであると理解されるようになったのである。そして、この立場は、ボナヴェントゥラ清貧擁護論』(1269年)によって理論化され、上述ニコラウス3世の教勅「エクスィト・クィ・セミナート」(1279年)ではローマ教会の公式見解とされた。こうして「所有」と「使用」を区別することによって生じた無所有」という虚構の上に、現実には修道会寄贈され財産自由に利用できる道がひらかれたいっぽう1241年ないし1243年フィオーレ司教神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世フェデリーコ)に圧迫されて、ピサフランシスコ会修道院逃れてきたとき、フィオーレのヨアキム著作持ち込んだといわれるフリードリヒ2世ローマ教皇対立しインノケンティウス4世から破門されているが、いずれにせよここから異端となったヨアキム主義フランシスコ会修道士一部蔓延するようになったものと考えられている。1255年フランシスコ会士のボルゴ・サン・ドンニーノのゼラルドによってヨアキム主義的な『永遠福音入門』が出版された。教皇アレクサンデル4世ヨアキム主義を公式に断罪すると、フランシスコ会第7代総長パルマヨハネ英語版)(パルマジョヴァンニ)がヨアキム主義好意的であったことから指弾され1257年神学者として知られるボナヴェントゥラが新総長となったボナヴェントゥラは、上述のように13世紀スコラ哲学代表する神学者であり、また、カトリック教会内部におけるフランシスコ会地位確固としたものにした業績知られている。彼は『清貧擁護論』でフランチェスコ清貧精神修道会財産保持両立可能なのであることを主張したが、その際宗教生活としての清貧」の価値をなおも維持しよう努めたボナヴェントゥラによれば、財の使用人間自然にもとづくものである以上、現世においてはその放棄不可能であり、イエス使徒たち清貧生活も財使用そのもの放棄なのではなくあくまでも所有権放棄だったはずである。しかし、財の使用あくまでも生存に必要最低限なものであるべきであり、それはイエス実践したものと一致しなければならない。これが「キリスト清貧」の拠って立つ意味である——ボナヴェントゥラこのように述べて理想と現実のあいだに微妙な均衡設定しようとした。 しかし、清貧緩和化のもたらした帰結甚大なものであったフランチェスコ個人にとってイエス・キリストとの神秘的な合一体験でもあった清貧は、「所有権放棄」という法的形式にすぎないものとなり、人びと宗教生活あり方としては形式化形骸化をまぬがれなかった。「清貧」はまた、逆説的にローマ教皇財産所有権前提にすることとなったフランチェスコ遺言忠実で、「アッシジ聖者フランチェスコ」に対す強烈な記憶鮮明に保持している人びとは、こうした事態直面して、しだいにフランシスコ会体制から離れていったのである13世紀後半北イタリアと、特にラングドック中心とする南フランスで、このヨアキム主義影響受けたフランシスコ会少数派清貧厳格な実践唱えるようになった。これをスピリトゥアル主義心霊派、聖霊派厳格派)と呼んでいる。2つ党派1280年頃までに分裂した緩和推進する修道会指導部中心とする主流派はコンヴェントゥアル派と呼ばれ清貧もっぱら法的な観点から理解し、それが所有権の完全放棄のみを意味するのであり、財の使用の制限義務ではなくあくまでも努力目標にすぎない主張した急進的なスピリトゥアル派は、これに対し会則文字通り実践、すなわち、アッシジのフランチェスコ生存実践してたような、「裸のキリストには裸で従う」という生活実践としての清貧主張し、財の使用における貧しさなければ清貧の名に値しない主張した北イタリアのスピリトゥアル派は、1280年以降フランシスコ会内部弾圧受けたが、のちに許され教皇ケレスティヌス5世によって「教皇ケレスティヌス貧しき隠遁者」として分離が赦された。ただし、存命中に退位したケレスティヌス後継教皇で、ケレスティヌス退任にも関わったといわれる教皇ボニファティウス8世は、これを弾劾した

※この「スピリトゥアル主義とコンヴェントゥアル派」の解説は、「フランシスコ会」の解説の一部です。
「スピリトゥアル主義とコンヴェントゥアル派」を含む「フランシスコ会」の記事については、「フランシスコ会」の概要を参照ください。

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