スピリトゥアル主義とコンヴェントゥアル派
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「フランシスコ会」の記事における「スピリトゥアル主義とコンヴェントゥアル派」の解説
フランシスコ会は教皇によって教会制度の中枢に結びつけられ、「キリストの清貧」は制度化された。フランチェスコ晩年にはイタリアからヨーロッパ各地へと説教活動が拡大し、教区での司牧活動が本格化していくなかで、早くもフランチェスコ自身の一種ユートピア的要請を包含する会則の厳格な適用を緩和しようとする動きが起こっているが、ローマ教皇庁はそれに対し、積極的に緩和の動きに応じている。それは、修道会組織の強化のためには、「無所有」を旨とする会則の厳格な適用が大きな障害となったからであり、第二会則の改正に携わったグレゴリウス9世と、1243年から教皇となったインノケンティウス4世は一連の教皇勅書を発して、無所有の絶対的清貧の原則と物質的必要という現実とを調和させるための法的解釈を導入した。それは、財の「使用」と「所有」を区別し、財の「所有」は認められないが「使用」は認められるというものであった。逆言すれば、「清貧」は法的解釈として「所有権の放棄」と見なされ、修道会が使用する財産の所有権は教皇座に帰属し、フランシスコ会は教皇の財産を「使用」するだけであると理解されるようになったのである。そして、この立場は、ボナヴェントゥラ『清貧擁護論』(1269年)によって理論化され、上述のニコラウス3世の教勅「エクスィト・クィ・セミナート」(1279年)ではローマ教会の公式見解とされた。こうして「所有」と「使用」を区別することによって生じた「無所有」という虚構の上に、現実には修道会に寄贈された財産を自由に利用できる道がひらかれた。 いっぽう、1241年ないし1243年にフィオーレの司教が神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世(フェデリーコ)に圧迫されて、ピサのフランシスコ会修道院に逃れてきたとき、フィオーレのヨアキムの著作を持ち込んだといわれる。フリードリヒ2世はローマ教皇と対立し、インノケンティウス4世から破門されているが、いずれにせよ、ここから異端となったヨアキム主義がフランシスコ会修道士の一部に蔓延するようになったものと考えられている。1255年、フランシスコ会士のボルゴ・サン・ドンニーノのゼラルドによってヨアキム主義的な『永遠の福音入門』が出版された。教皇アレクサンデル4世がヨアキム主義を公式に断罪すると、フランシスコ会の第7代総長パルマのヨハネ(英語版)(パルマのジョヴァンニ)がヨアキム主義に好意的であったことから指弾され、1257年、神学者として知られるボナヴェントゥラが新総長となった。 ボナヴェントゥラは、上述のように13世紀スコラ哲学を代表する神学者であり、また、カトリック教会内部におけるフランシスコ会の地位を確固としたものにした業績で知られている。彼は『清貧擁護論』でフランチェスコの清貧の精神と修道会の財産保持が両立可能なものであることを主張したが、その際、宗教生活としての「清貧」の価値をなおも維持しようと努めた。ボナヴェントゥラによれば、財の使用は人間の自然にもとづくものである以上、現世においてはその放棄は不可能であり、イエスや使徒たちの清貧生活も財使用そのものの放棄なのではなく、あくまでも所有権の放棄だったはずである。しかし、財の使用はあくまでも生存に必要最低限なものであるべきであり、それはイエスが実践したものと一致しなければならない。これが「キリストの清貧」の拠って立つ意味である——ボナヴェントゥラはこのように述べて、理想と現実のあいだに微妙な均衡を設定しようとした。 しかし、清貧の緩和化のもたらした帰結は甚大なものであった。フランチェスコ個人にとってイエス・キリストとの神秘的な合一の体験でもあった清貧は、「所有権の放棄」という法的形式にすぎないものとなり、人びとの宗教生活のあり方としては形式化・形骸化をまぬがれなかった。「清貧」はまた、逆説的にもローマ教皇の財産所有権を前提にすることとなった。フランチェスコの遺言に忠実で、「アッシジの聖者フランチェスコ」に対する強烈な記憶を鮮明に保持している人びとは、こうした事態に直面して、しだいにフランシスコ会の体制から離れていったのである。 13世紀後半に北イタリアと、特にラングドックを中心とする南フランスで、このヨアキム主義の影響を受けたフランシスコ会の少数派が清貧の厳格な実践を唱えるようになった。これをスピリトゥアル主義(心霊派、聖霊派、厳格派)と呼んでいる。2つの党派は1280年頃までに分裂した。緩和を推進する修道会指導部を中心とする主流派はコンヴェントゥアル派と呼ばれ、清貧をもっぱら法的な観点から理解し、それが所有権の完全放棄のみを意味するのであり、財の使用の制限は義務ではなく、あくまでも努力目標にすぎないと主張した。急進的なスピリトゥアル派は、これに対し、会則の文字通りの実践、すなわち、アッシジのフランチェスコが生存実践していたような、「裸のキリストには裸で従う」という生活実践としての清貧を主張し、財の使用における貧しさがなければ清貧の名に値しないと主張した。 北イタリアのスピリトゥアル派は、1280年以降フランシスコ会内部で弾圧を受けたが、のちに許されて教皇ケレスティヌス5世によって「教皇ケレスティヌスの貧しき隠遁者」として分離が赦された。ただし、存命中に退位したケレスティヌスの後継教皇で、ケレスティヌス退任にも関わったといわれる教皇ボニファティウス8世は、これを弾劾した。
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