スウェーデン公使、待命時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 07:55 UTC 版)
「白鳥敏夫」の記事における「スウェーデン公使、待命時代」の解説
白鳥は大島浩駐ドイツ陸軍武官と提携して、1936年(昭和11年)の防共協定の成立に主導的に関与したという説もあるが、必ずしもその確証は挙がっていない。ただ、英米を牽制するという見地から防共協定自体には賛成していた。また白鳥は英米との対立はそれほど強調していなかったが、ソビエト連邦に対して激しく警戒しており、対ソ関係を「清算」する、即ち対ソ戦争をも行う覚悟で交渉を行うよう主張していた。外務省中央やヨーロッパ政局からも外れたストックホルムでの駐在に嫌気が差した白鳥はたびたび帰国を要請したが、外務省からは旅費がないとして拒絶され、ならば自費で帰国するなどと押し問答を続けていた。 1936年11月、ようやく正式な帰朝命令が下り、12月下旬に日本に帰国してからの約2年間は閑職に置かれる状態だった。この時期白鳥は活発な言論活動を展開し、様々な論説を発表している。日中戦争については日本と西洋に依存することを考えた中国との間で思想的対立があったためであると主張し、日本側もその真意を中国側に伝える義務を怠ったとしている。日独伊連携強化を主張する若手外務官僚の間では「白鳥を外務次官にせよ」との声が挙がった。しかし外務省内で対立することが多く、元駐独大使小幡酉吉は、外相就任を求められた際に、若手から白鳥を次官にする声が上がると、外相就任を辞退するほどであった。小幡は白鳥が森と赤坂で飲み歩き、外務省の公金を使って芸者に子供を産ませたと常日頃から公言してた。1937年3月30日には宴席の場で、白鳥が脇息を小幡に投げつけ、ケガをさせるという事件が起きている。 また白鳥はこの時期の論説で日本が、人民戦線諸国(共産主義・資本主義諸国)と敵対する、イタリアやドイツ、ポルトガル、ブラジルといった、「ファッショ・グループ」と共通しており、むしろ日本がその本家本元であるという主張も行っている。また日本の神道は「天皇教」ともいえる「宇宙宗教」であるとも唱え、人民戦線諸国と全体主義諸国の大争闘が起きるとも語っていた。白鳥の過激化に、信を置いていた近衛文麿も「誇大妄想狂じみてる」と懸念を示すようになった。西園寺公望の秘書原田熊雄も白鳥を責任ある地位に就けることでかえって穏健化させることを考慮していた。1938年には広田外相が新設予定の対中国政策機関の長官として白鳥を据える計画を立てたが、広田が更迭されたことによって立ち消えとなった。広田更迭後にはまたしても外務省内の若手たちから白鳥を次官に擁立する声が高まり、東亜局長石射猪太郎は「省内ナチス党」と呼んでいる。また板垣征四郎陸軍大臣も白鳥を次官に起用するよう求め、7月には、大川周明が白鳥の起用を求める外務省若手の連名書を宇垣一成外相に提出し、また若手官僚7人が宇垣の私邸を訪れて白鳥の次官起用を暗に求めるという一件もあった。しかし堀内謙介次官を更迭するつもりの無かった宇垣は応じなかった。宇垣はかわりに駐イタリア大使のポストを提示した。白鳥はこれをすぐには承諾せずに、推薦者と思われる近衛の元に赴いた。近衛は大臣となる資格をつけるために大使となった方がいいと助言し、9月22日にイタリア大使に親補された。 ところが9月29日、宇垣外相が興亜院設置問題で辞職すると、再び白鳥擁立の声が若手官僚の間で高まった。外務事務官牛場信彦は兄の牛場友彦首相秘書官を通じて、白鳥を大臣に推す50名の外務官僚の署名が入った連判状を近衛首相の下に提出した。内閣秘書官長の風見章は白鳥を大臣にすることに同意していたが、海軍大臣の米内光政はこれに強く反対した。近衛は白鳥を呼び、「内外の事情から今は君を大臣にすることはできない」と告げた。白鳥は外相として「有田(八郎)が一番私心が無くてよい」とし、自らの同調者である栗原正を次官に推薦した。しかしこれも官邸や外務省内からの反発を受け、栗原は東亜局長となるにとどまった。白鳥はこの動きが定まるまでの間日本に滞在していたが、11月に日本を離れイタリアに赴任した。
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