シリア軍の進駐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 04:47 UTC 版)
「パクス・シリアーナ」の記事における「シリア軍の進駐」の解説
詳細は「レバノン内戦」を参照 シリア軍は、1982年のレバノン戦争以来追放されていたベイルート西部に初めて進攻し、レバノン軍や警察と協力したおよそ500人のシリア兵がバリケードの撤去や民兵事務所の閉鎖、兵器の収集に当たった。しかし1987年2月中旬、今度はシリアの協力者と見なされていたレバノンのドゥルーズ派(英語版)とレバノンのシーア派(英語版)民兵の間で、ベイルート西部における新たな一連の戦闘が勃発した。目撃者によると、この戦闘はシリアが双方に供給したソビエト連邦製のT-54戦車を使った民兵との12年間の戦争のなかで、他に類を見ない激戦だったという。5日間の戦闘で推定700人の犠牲者を出し、西ベイルートの大部分を火の海にした。 シリアはベイルート西部の混乱を食い止めるための断固たる行動をとり、1982年にイスラエルに追放されたレバノン地域における覇権を再び課す機会を得た。2月22日になると、レバノン東部から2個旅団と1個大隊を編成して7500人の軍隊を派兵した。シリア軍はそのほとんどがベテランのコマンド部隊であり、約70の民兵事務所を閉鎖して民兵指揮官を逮捕し、武器の隠匿場所を差し押さえた。そのほか、幹線道路沿いやベイルート国際空港への部隊展開、検問所の設置、街頭のパトロール部隊を派遣するなどをした。 シリア軍はベイルートの秩序回復のために武力行使を辞さず、その治安作戦の最初の2日間で、様々な民兵のレバノン人約15人を射殺した。2月24日には、シーア派の拠点バスタ地区にシリア軍のコマンド部隊を満載した十数台のトラックが入り、ヒズボラの本部であるファタラ(Fathallah)兵舎を攻撃して18人のヒズボラ過激派を殺害した。 4月中旬のシリア軍はベイルート南部に部隊を展開した。約100人のコマンド部隊はレバノン軍第6旅団の兵士らと共闘、ベイルートとレバノン南部を結ぶ戦略的な海岸道路沿いの要所を占拠し、サイダ付近のアワリ川(英語版)の橋を支配した。 1987年半ばまでに、シリア軍は長期滞在のためベイルートに長く留まったと見られる。レバノンの無秩序状態はシリア当局から自国の安全保障にとって容認できないリスクと見なされ、シリア政府としても必要であればベイルートを永久に占領する用意があるようであった。在レバノンのシリア軍司令官ガジ・カナーン(英語版)准将は、レバノンの民兵支配は終了したとし、シリアの介入は 「開放的」 だと述べ、シリアによるベイルート西部の無期限占拠を仄かした。一方シリア当局者は、安定を確保するために数千人のシリア軍がベイルートにおそらく追加派兵されると示唆した。カナーンは、シリアが西ベイルートの外国大使館の安全に全責任を負うと宣言し、大使らの帰国を勧めた。彼はまた、レバノンのテロリストによって拘束されている西側の人質の解放を保証するために、シリアが可能な限りの努力を果たすとも約束した。
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