シリア軍侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:33 UTC 版)
寄合所帯であるレバノン政府は内戦を収めるには全くの無力であり、国軍も脱走兵が相次いで機能を喪失してしまった。特にムスリムの兵士は、所属宗派の民兵組織に逃げ込み、一部は「レバノン・アラブ軍」という反乱軍を結成した。1976年3月以降、ファランヘ党を始めとするマロン派民兵組織は、軍事力の豊富なPLOやアマルに次第に追い詰められていき、東ベイルートやジュニエといった自派の町に閉じ込められてしまった。 こうしたレバノンの事態に、隣国シリアは当初は中立的な立場から静観し、1976年2月には「ダマスカス合意」と呼ばれる政治改革案を当時のスライマーン・フランジーヤ大統領に宛てて発表した。この合意は穏健的な政治・社会改革を目指すものであった。しかし、これは基本的に内戦以前のレバノンの現状を維持するものであり、ムスリム左派には強い不満を残すものであった。特にドゥルーズ派やPLOからは強い反発が生まれた。 ドゥルーズ派の名家出身であり、熱心なソ連支持者でもあった社会主義進歩党指導者のカマール・ジュンブラートもPLOとの連携に積極的であり、レバノンにおけるアラブ民族主義政権樹立を目指していた。彼は内戦勃発前の1968年に「レバノン国民運動」と呼ばれる左派連合体を成立させ、マロン派に偏重している政治権力を取り戻し、汎アラブ主義国家を樹立させる事を目標とした。ジュンブラートにとって、この内戦はその夢が実現する好機であった。 1976年5月、シリアがレバノン政府の要請に基づいて侵攻してきた。シリアにとってはドゥルーズ派とPLOの推し進める革命は、イスラエルのレバノン・シリア攻撃を誘発すると考えていた。このため、軍事力によって急進派のPLOやドゥルーズ派を制圧したのである。PLOや左派、そしてアラブ社会からはシリアの行動に対して非難が出された。1977年3月、シリアを裏切り者として特に非難したジュンブラートは何者かによって暗殺された。 シリアの軍事介入により、内戦は一時的に沈静化する。しかし、和平に失敗した上にマロン派とシリア軍、さらにPLOとの対立で再燃化してしまう。特にシリア軍の行動はPLOに不信感を与えたが、マロン派内でも分派し、1976年9月に反シリア・パレスチナを旗印にしたレバノン軍団(LF)が結成された。シリア軍とLFは散発的に衝突し、PLOやドゥルーズ派とも戦闘を繰り広げた。劣勢であったLFはイスラエルの支援と介入が不可欠と目論み、内戦への同国の参入の機会を模索した。
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