シューマンとゲーテ『ファウスト』
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「ゲーテのファウストからの情景」の記事における「シューマンとゲーテ『ファウスト』」の解説
ゲーテの『ファウスト』は、ドイツ・ロマン派の熱狂と動揺のすべてを体現する作品として、シューマン以前にもE.T.A.ホフマンやウェーバー、メンデルスゾーンらがこの作品の音楽化を試みている。しかし、この作品が持つ無限の多様性を音楽化できたものはいなかった。 シューマンと『ファウスト』の出会いは、彼のギムナジウム時代にまでさかのぼる。シューマンは1820年、10歳のときから8年間、出身地ツヴィッカウのギムナジウムで学んだ。書店を経営していた父親と似て読書好きだったシューマンは、ギムナジウムで「ドイツ文学」サークルに入り、リーダーとなった。『ファウスト』はこのころにほとんど暗記するほど読み、シューマンは友人たちから「ファウスト」または「メフィスト」などと呼ばれた。 ブリオンによると、シューマンは幼年時代からゲーテを尊敬していたが、青年期に傾倒したジャン・パウルへの親近感とは異なり、ゲーテに対しては畏怖の念を抱いていたという。シューマンが21歳のときの日記には、「お前の中から警句的な、機知的なものを取り除け―それはお前の本性にはない。単純に、自然に書け。ゲーテはつねに良いお手本だ。正確と簡潔に慣れよ、表現の連続性にも。意味をぴたりと射当てる言葉を見出すまで、探しつづけること。」(1831年10月17日付)という記述がある。シューマンの四女オイゲーニエの回想では、シューマンはゲーテの詩から人生の師となるような銘を選び出して心に刻んでいた。 本作は、シューマンの「ライプツィヒ時代」に当たる1844年に『ファウスト』第2部終末の場面(この曲の第3部)を作曲して以来、最後の序曲の完成まで10年がかりの構想となった。この間にシューマンはライプツィヒからドレスデンへ、ドレスデンからデュッセルドルフへと移り住んでおり、彼の主な創作期間がこの中に入り込んでいる。オペラ『ゲノフェーファ』、劇付随音楽『マンフレッド』、交響曲第2番、同第3番「ライン」などの創作の背後で、『ファウスト』作曲の努力が続けられ、深い影のように添っていた。前田は、シューマンにとってこの課題との対決は、自分の芸術家としての実存を賭けた、根源的な行為となったとする。1850年、第2部の第2曲および第3曲に取り組み始めたが、そのもっとも悲劇的な場面でシューマンは音楽と物語のただなかに自己を投影する方法を採り、シューマン自身がファウストになりきっていた。このため、「ファウストの死」の部分では亡霊につきまとわれ、自分の墓穴が掘られるような錯覚に襲われたという。 完成までに要した時間のために、1844年に作曲された最後の場面と1849年、1850年に作曲されたその他の部分との間には不均衡が目立っている。このこともあり、この作品を一晩で全曲上演することについて、シューマン自身が「ときには物珍しさから、あってもよいことだろうが」として困難であることを認めている。シューマンのこの言葉には、晩年に至って世の音楽界に背を向けたことへのアイロニーと諦念を聞き取ることができる。しかしそれだけでなく、音楽としての世界の深さ、内面性によって、この作品が演奏会における効果を超えたものとなっていることも事実であり、これは原作の『ファウスト』とも共通する点である。 前田は、「こうしてゲーテの世界文学の大きさと深さとに、おそらく音楽芸術からしてもっとも真摯な高貴な魂の接近がなされ、かけがえのない実を結ぶことになった。」とする。さらに前田は、シューマンの中後期の作品理解、とくに大作への理解が遅れており、判断と評価の適正な基盤はまだ整っていないとしつつ、「ドイツ19世紀芸術の偉大な遺産のひとつとして、この作品の真価に時代を超えた永遠の貢献が認められるのも遠いことではあるまい。」と述べている。
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