シューマンによる発見と初演
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 02:12 UTC 版)
「交響曲第8番 (シューベルト)」の記事における「シューマンによる発見と初演」の解説
完成直後の1826年、シューベルトは同曲の楽譜をウィーン楽友協会へ献辞を添えて提出したが、わずかな謝礼こそ得たものの、演奏困難との理由で演奏されることはなかった。1828年にも同協会に提出したが、同様に演奏されることはなかった。 この作品は、シューベルトの死後、1839年にシューマンが、すっかり忘れ去られてしまっていたシューベルトの自筆譜を発見して世に知られるようになった。前年にシューベルトの墓を訪れていたシューマンは、同年1月1日にウィーンのシューベルト宅を訪れるまでは、シューベルトはあくまで歌曲や小規模な室内楽、ピアノ曲などを演奏する、気心知れた仲間内の演奏会「シューベルティアーデ」の作曲家という認識しか持っていなかった。彼の部屋を管理していた兄フェルディナントはシューベルトの死後そのままに仕事机を保管していた。シューマンは、その机の上にあった長大な交響曲を発見し、シューベルトを歌曲の作曲家と見ていた自らの認識を覆すその作品に驚愕した。シューマンはぜひこれを演奏したい、楽譜をライプツィヒの盟友メンデルスゾーンに送りたいとフェルディナントに懇願し、ようやく許可を取り付けてメンデルスゾーンのもとに楽譜が届けられたという。 1838年3月21日、メンデルスゾーンの指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏によって、この交響曲は初演された。シューマンは初演には立ち会えず、翌年の再演でようやく聴くことが出来た。
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