シューベルティアーデ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 03:45 UTC 版)
「フランツ・シューベルト」の記事における「シューベルティアーデ」の解説
シューベルトが私的に行った夜会は、彼の名前にちなんで「シューベルティアーデ(ドイツ語版)」と呼ばれた。現在もキャッチフレーズとして使われることがある。彼は協奏曲を作曲することはほとんどなく、その慎ましいイメージも「シューベルティアーデ」の性格を助長させた。 1828年に出版された最後の作品が『連弾のための大ロンド イ長調』op.107(D951)だったことから伺えるように、生前に出版された作品だけでも作品番号は100を超えている。同じ時代に、これと同数の作品を作曲できたライバルはカール・ツェルニーのみである(31歳前後のツェルニーにはオペラや交響曲などの大規模出版作品は見当たらない)。それらに大規模作品は含まれず、極端な場合は委嘱作すら生前の出版はなく(アルペジョーネソナタなど)、没後も長期間にわたり出版が継続されている。最後の作品番号はop.173(1867年)であり、すでにシューベルト死去から30年以上が経過していた。 31歳でこの膨大な量は無名の作曲家では不可能であり、作曲家としてすでに成功と考えてよいという理由から、シューベルトが本当に貧しかったのか疑問視する声もある。また、シューベルトを描いた肖像画は何点も作成されており、それらは対象を美化している。名士であれば肖像画を実物より美しく描くことが当時の画家の責務だったため、こうした待遇は、シューベルトが名士であった証拠と考えることができる。シューベルトはグラーツ楽友協会から名誉ディプロマを授与された(未完成交響曲)ときには25歳に過ぎず、この時点で彼は無名ではなかったと考えられる。 また、シューベルトの死に際して、新聞は訃報を出している。
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